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第一章 近代福井の夜明け 第五節 明治前期の教育・社会 三 近代学校の普及

小学校の教育内容と試験

 ここで明治十年代の教育内容についてみておこう。文部省は明治十四年(一八八一)五月に「小学校教則綱領」を布達し儒教主義的な教育内容を規定したが、これをうけて福井県では翌十五年五月に「福井県小学教則」(甲第八九号)を布達した。この教則は小学校を初等・中等・高等の三段階に分け、各教科内容を具体的に規定していた。教科は、修身・読書(読方・作文)・習字・算術・地理・歴史・図画・博物・物理・化学・生理・幾何・経済・裁縫及家事経済・体操などがあり、それぞれ説明がなされているが、文部省の規定どおりに修身が筆頭に位置づけられていた。修身の内容として初等科では「簡易ノ格言事実等」、中等科と高等科では「漸次高尚ノ格言事実等」を教授し、「専ラ児童ノ徳性ヲ涵養スル事ヲ務メ、兼テ坐作進退応対等ノ諸礼法」を教授すべしとされていた(第八条)。

 この教則には「教科書表」が添付されているが、当時の教科書は文部省や東京師範学校など中央で発行されたものばかりではなく、十九年の「小学校令」による教科書検定制度施行までは、各地方である程度自由に独自なかたちで発行され使用されていた。したがって、この教科書表の福井県関係のものとして池田観『修身小学読本』(十四年)、本多鼎介『越前地誌略』(十一年改正)、奥田栄世『滋賀県地誌略ノ内若狭国ノ部』(十二年改正)をあげることができる。十八年三月には「福井県小学校教則」(甲第一九号)が新たに布達され「小学校ハ彝倫道徳ヲ本トシ普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所」(第一条)という目的が示された。添付された教科書表によれば、福井県関係は安田甫ほか編『小笠原流小学生徒躾』(十六年)、日置勝驥ほか編『新撰小学中等科読本』(十六年)などである。

写真72 教科書

写真72 教科書

 試験については十五年七月に「福井県小学試業法」(甲第一二八号)が布達された。ここでは、月末に実施し「優劣ヲ判シテ毎級生徒ノ坐次ヲ進退スル」という「月次試業」(第二条)と、六か月ごとに学期末に実施し進級の可否を評価する「定期試業」(第三条)の二つがあった。試験の実施にあたって学務委員は必ずこれに立ち会い、「定期試業」に関しては、郡内小学校の他校の教員二人以上を選び、立ち会わせる(第四条)、学務担当郡書記が監督し、場合によっては県の学務官吏が臨監することがあること(第五条)、師範学校巡回教師を派遣し試業方法等を指示すること(第六条)などが規定され、進級判定のきびしい現実がうかがわれる。

 十年代なかば以降になると、県の規程には見当たらないが、こうした定期的な試験のほかに「小学生徒奨励会」と称する試験が、県内各地で行われていた。この試験は、複数の学校の児童が参加して優劣を競ったもので、全国的にも「集合試験」「比較試験」などと呼称され各地で実施されていた。「各郡ニ奨励会(毎郡大凡一年二回)ヲ施行シ生徒ノ優劣ヲ判シテ相当ノ賞与ヲ付与」(『文部省年報』)したとされるように、褒美をともなった学事普及の方法として行われた(柳沢芙美子「福井県における比較試験の実態とその役割」『若越郷土研究』三九―二)。

 大飯郡青郷小学校訓導の大嶋黙は、十六年十二月十九日から二十三日の高浜の雪浜小学校定期試業に立ち会い、「定期試業功程」を書き留めている。それによれば、受験生は一七六人で及第は一四五人、落第三一人であり、等級は初等全科と中等四年前期・五年後期・六年前期にいたり、受験生の品行はすべて静粛であったという。十八年の雪浜小 学校の秋季試業問題のいくつかをあげると、中等五年前期修身科では「古人云公論百年ニシテ定アルハ其意如何」、読方科では「父母ノ安否ヲ問ふ返事」「久シク滞留セシ家ヘ遣ス文」、算術科では「旅人毎日一二里宛歩行シ百八里ノ道程ニ達シ、帰路ハ往路ニ費セシ日数ヨリ二日少ク、且ツ卒リノ日ハ只六里ヲ歩ミシト云フ、帰路毎日ノ歩何里ナルヤ(答十七里)」、金石科では「硫化物酸化物及金石ニ粘着力アリトハ、果シテ信ナルカ如何」などが出題されていた(大嶋宏家文書)。

写真73 小学校試験問題

写真73 小学校試験問題


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