目次へ 前ページへ 次ページへ


第一章 近代福井の夜明け 第五節 明治前期の教育・社会 三 近代学校の普及

小学校の普及

 明治十四年(一八八一)二月に福井県が設置された時期は、前年の十三年十二月の教育令改正によってそれまでの「自由教育令」の趣旨が変更され、督促主義・儒教主義的な教育政策が実施される時期に重なっていた。福井県は、嶺北・嶺南の人情や風土がかなり異なるので、学事を急に一つにするのではなく、地域の実際に照らして徐々にその普及をはかるという方針を掲げていた(『文部省年報』)。

図9 就学率(明治14~大正1年度)

図9 就学率(明治14~大正1年度)

 図9を見ると、十五年には前年の数値が就学率にして約五パーセントも増加し、また全国平均と比較しても高い数値である。それ以降の就学率をみると、十八年から減少し、十九年には全国平均以下に落ち込み、二十一年で最低の就学率四二・八五パーセントになり、それからは徐々に回復していく。このような変化のなかで、男子就学率は二十五年を除き一貫して全国よりも高い数値を示しているが、女子就学率は十七年から全国平均以下になり二十二年には最低に落ち込む。このように福井県においては男子就学率が女子と比較してかなり高いことがわかる。就学率は福井県全体では全国平均よりも高いが、とくに若狭が非常に高く七割に近い数値であり、十八年には六割を下回るが依然として高い数値を維持している(表54)。他方、越前の就学率は全国平均を若干上回る五割台であるが、十七年には全国平均を下回り、翌十八年には四割台に落ち込む。郡別に就学率の順位をみると、当然のことながら若狭三郡(三方・遠敷・大飯)が高い就学率を示しており、越前のなかで高い就学率を示すのは足羽・今立、反対に低い就学率は吉田・坂井・大野の各郡である。

 就学率低下の原因としては、松方デフレによる農村不況があげられよう。十七年には「民間ノ困弊、日一日ヨリ加」わり、「将来学事上不測ノ影響」が憂慮されることが報じられていた。十八年には就学率が約五パーセントも減少した理由として「非常ノ水害ヲ以テシ其困弊益々甚ク、学費ヲ減殺スルモノ往々是アリ」と報告され、町村立学校の総支出は一〇万九〇〇〇円で、前年に比べて二万余円が削減されたという(『文部省年報』)。

表54 郡別就学率(明治15~18年)

表54 郡別就学率(明治15~18年)

 県歳出中に占める教育費と町村教育補助費をみると、町村教育費補助が十八、十九年にかなり減少していることがわかる(表55)。十五年と十七年では、町村の歳出の合計が約四〇万円から約二五万円に大幅に減少し、そのなかで教育費の割合が三割弱から四割五分に相対的に増加している。教育費の割合が高いのは若狭三郡で、十七年ではいずれも六割を超えていた。また割合が低いのは吉田・南条の二郡であった。

 さて、十八年八月には第三次「教育令」によって、学務委員が廃止され、その職務は戸長が管理することとされた。また簡易な「小学教場」の設置が認められるなど全体的に著しく規制が緩和され、土地の事情に即応した教育政策がとられた。さらに同年十二月には内閣制度が発足し初代文部大臣に森有礼が就任して、翌十九年には勅令として諸学校令(「帝国大学令」「師範学校令」「中学校令」「小学校令」)を出す。この諸学校令によって明治期の国家主義的な近代教育制度の基本が打ち出されたといってよい。

表55 県歳出中に占める教育費(明治14~22年度)

表55 県歳出中に占める教育費(明治14~22年度)

 「小学校令」では、小学校を尋常小学校と高等小学校(ともに修業年限四年)の二段階とし、尋常小学校が義務教育とされた。この尋常小学校と並列して、これに代替できる修業年限三年以内の「小学簡易科」が設けられた。小学校と小学簡易科の経費については明確に区別され、小学校は、原則として父母後見人からの授業料と寄付金で賄うこととされ(第六条)、これに対して小学簡易科は公費(区町村費と府県費)による維持が定められた(第一五・一六条)。全国的には、小学簡易科の設置は政策的に奨励されたほどには普及せず、最盛期の二十二年度においても、小学簡易科・尋常小学科・高等小学科の各課程総数の四五パーセント、小学校児童数の二六パーセントであった。これに対して福井県は、広島県・石川県などとならんで小学簡易科の設置が多かった。二十二年度で小学校課程数の八三パーセント、小学校児童数の五四パーセントと小規模校の大半が簡易科となっていたことがわかる。これは、十九年十二月の県令第三六号によって、二十年四月以降四九一校すべてに簡易科が設置されたためであり、町部を中心に尋常科・高等科が併置された。二十二年度の文部省視学官の報告では福井県では「民度ノ発達ニ従ヒ、漸次尋常科ニ改ムルノ方針」とされていたが、二十三年の県令でもほぼすべての小学校に簡易科がおかれており、就学状況は停滞した(『文部省年報』、『若越小誌』)。


目次へ 前ページへ 次ページへ