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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
     二 近代教育のはじまり
      分属時代の小学校
 福井県域が、石川県と滋賀県に分属していた明治九年(一八七六)八月から十四年二月までの就学率は、嶺北は全国平均よりも若干高く、嶺南はかなり高いことがわかる(表53)。この時期は十二年九月の第一次「教育令」(いわゆる「自由教育令」)および翌十三年十二月の第二次「教育令」と、あわただしく教育法規が自由主義から督励主義に変わった時期であった。十二年の「教育令」によって強制的な就学奨励が行われなくなり、学事が衰退し、政府・文部省は学事の引締め・就学督促の方針へ転換することになるのである。九年の『文部省年報』には、越前の人民は、石川県の「県政ニ抵抗」するので、「越前ノ学事ハ姑ク旧県ノ法ニ依循シテ、之ヲ改革スルコトナシ」という方針が示され、また敦賀県時代の学事状況が「加能ノ二国ニ劣ルコトナキ」と評価されていた。一方、滋賀県の学事状況においても、嶺南四郡は近江に比べて学校数や就学生徒においても劣っていないと評価されていた。
 これに対して、十二年の石川県の報告では「自由教育令」による学事の衰退が報告され、翌十三年ではさらに「漸次腐敗ニ趣キ、人身ノ麻痺ニ罹リ、逐日衰弱ニ傾クカ如ク、其底止スル所知ルヘカラス」とある。一方、滋賀県の報告では学事の衰退状況はとくに報告されていないが、十二年十月より「小学臨時試験」を実施し、県令が県職員や教員とともに「管内七郡ヲ巡回シ、優等生徒ハ之ヲ賞誉シ其他ハ之ヲ督励シ、父兄公衆ノ来観ヲ許シ子弟ノ実力ヲ目撃」させることで父兄の意識を変えることが意図されていた。ここには前述したように試験をバネとした学事の普及がみてとれる(『文部省年報』)。
 さて、この分属時代の学事状況を、敦賀の就将小学校においてみてみよう。就将小学校は、敦賀県時代には県庁所在地の中心校を自負し、その規模や教授内容において、充実した学校の一つであった。「就将学校沿革記」では、九年八月に滋賀県に属することになったが、「教育上ノ事ハ暫ラク旧慣ニ由ラシム」とされた。九月の新築落成式には酒井明滋賀県大書記官が臨席、十月には篭手田安定滋賀県権令がはじめて同校を巡視、さらに翌十年には九鬼隆一文部大書記官が同校を巡視していた。十三年六月の同校の調査では、学齢児童は一二五七人、就学者は六四一人(男子三九三人、女子二四八人)、就学率五一パーセントであった。
 また、就将小学校の教師たちは、さまざまなかたちで敦賀町あるいは郡内、県内の各学校と連絡組織をつくろうとしていたことがわかる。まず九年に敦賀県下で各郡の区長・学区取締・師範学校教員・小学校優等訓導を招集して「教育会議」が開催され、敦賀郡からは同校訓導大谷直郎が選ばれ、議員となった。こうした県レベルの会議は、滋賀県下では開かれなかったが、敦賀町、敦賀郡ではさまざまな名称の会議が開かれていた。十一年十月には敦賀町の四校(就将・振育・簡修・進良)の教員が協議して「教育会」を開き、以後毎月十五日を会議日とした。十二年二月には滋賀県の教則が改正されたが、その改正が郡内の民情に適さなかったことから、郡内の教員が就将小学校で討議し、県に改善を要請、許可されていた。翌十三年七月二十四日から三日間、前述の四校の教員が同校に集まり「臨時教育会議」を開き、「公立小学校模範教則」(同年十二月頒布)の原案を検討した。さらに同年九月、振育校において定例の「教育会」を開催し、これ以降会議を年四回とすることになった。福井県が置かれる直前の十四年一月には四校で「敦賀港教育会議規則」を定め、さらに同月、四校が中心となって郡内各校に呼びかけて「教育郡会」を同校で一週間にわたって開催していた。これらの具体的内容を跡づけることは、史料的に困難であるが、地域の教員同士の連絡・協議の場が、さまざまなかたちでもたれていたと考えられよう(敦賀西小学校文書)。



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