「学制」の実施においてもっとも重点がおかれた小学校教育を担う教員の養成は、小学校の開設と同様に急務であった。敦賀県においては、明治七年(一八七四)の小学校教員数は八四三人、八年九九七人であり、ほとんどが男性であった。十四年では小学校教員数は一二五一人となったが、うち訓導は一一五人(男一〇九人、女六人)のみであり、六割が無資格の授業生や助手であった(『文部省年報』)。
小学校教員養成機関の設置については、六年十一月に第二八番中学区福井私立中学校に師範学科を併設したのが最初であった。この学科は翌七年四月に福井師範学校として独立し、五月には一〇〇〇戸に一人の割合で生徒を募集し、試験のうえ師範学科に入学させたものが一二〇人となった。学資は一か月二円三〇銭を貸与し、教科は読書・算術・習字の三科目を課し、小学授業法については東京師範学校卒業生に伝習させた。訓導のほかに読書・算術・習字等に優れているものを「巡講師」として九人が任用された。八年九月には小浜(第二六中学区)・武生(第二七中学区)・大野(第二八中学区)・福井(第二九中学区)の四か所に小学授業法伝習所を設置し、定員一五〇人を募集した。同年十二月には区長・学区取締・校長などの会議によって「公学規則」が定められ、伝習所の卒業証書をもつ者しか訓導はできなくなり、九年二月より現職の教員や一般の志願者に対し試験を行い、及第者には証書をあたえたとある(『文部省年報』)。 |