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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
     二 近代教育のはじまり
      小学校の開設と就学
 学制を実施するにあたっては、小学校(初等教育)の普及がもっとも重視された。『文部省年報』の「敦賀県学事年報」では、明治七年(一八七四)には一戸あたり三七銭五厘の教育費が人びとに「租税ノ重歛」のようにとらえられていたことが報告されている。一方で六年三月の大野郡の真宗門徒の一揆にもふれ、「初ハ学事ヲ以テ異教トナセシモ、今ハ却テ発憤向学ノ翹楚トナル」とされていた。総じて民衆が「未タ教育ノ貴重ナルコトヲ知ラサル」状況が報告され、教育内容についても近代的な教科ではなく「和算」や「村名尽」のような生活と関連のある読・書・算の内容を扱いつつ、「追々正則ノ授業法」を広めるべきことが述べられている。八年でも民衆の教育への理解が少ないこと、また「学資ノ不足」がもっとも問題であることが報じられている。
写真68 龍翔小学校(三国町)

写真68 龍翔小学校(三国町)

 また五年八月から六年三月にかけて、足羽県権大属学校掛富田厚積によって編集された『撮要新聞』は、学事を奨励する立場での記述が多く、学校に対する学費や物品の寄付などがあいついで取り上げられていた(第一章第五節一)。同時に小学校の設立状況についても報告され、第四号(明5・9)では、大野郡にはすでに開校にいたったところもある一方で、福井の町部での開設は、困難な状況にあることが報告されている。第七号(明5・11)では武生での進脩小学校の開設がつぎのように報じられている。武生町は戸数およそ三〇〇〇戸であるが、今秋八月増永峻岡をはじめとする有志が民費をもって小学校の設立を申請し、十月に陽願寺を本校、引接寺を支校として開設された。当初の就学児童数は七五六人で、今月には一〇〇〇人に達する勢いであったという。
 だが、進脩小学校のような大規模校は、市街地に限られたものだった。八年で教員数が一〇人以上または児童数三〇〇人以上の学校は、進脩小学校のほかに、川口小学校(福井)、平章小学校(丸岡)、成器小学校(勝山)、有終小学校(大野)、惜陰小学校(鯖江)、就将小学校(敦賀)の六校のみであった。一校平均の教員数は一・九人、平均児童数六二・四人であり、六割の学校で教員は一人のみ、児童五〇人以下の学校が半数を越えていた。校舎は寺院を借用して開校した学校が多く、授業料を徴収している学校は一割ほどであった(表52)。また、六年から福井県の成立する十四年までの就学率をみると、全国平均と比較して数値の不明な一部の年度を除いていずれも高く、とくに男子の就学率が高いことがわかる(表53)。

表52 小学枚・教員・児童数(明治7〜9年)

表52 小学枚・教員・児童数(明治7〜9年)


表53 小学校の就学率(明治6〜14年)

表53 小学校の就学率(明治6〜14年)
 なお、九年七月に布達された「敦賀県教育規則」は、「小学ノ部」「伝習所ノ部」「学務ノ部」から構成され、小学校の教授内容から教員養成、教育行政にわたる体系的なものであった点で注目される。「小学ノ部」では「小学校則」「小学教則」「生徒試験規則」「男女教授法区別」「貧民教授規則」などの一〇項目、「伝習所ノ部」では「伝習所通則」「訓導并一般人民学業試験及第証書授与規則」「附属小学規則」などの一七項目、「学務ノ部」では「学区取締職制」「学資出金規則」「教育会議規則」などの二二項目にわたる事項が詳細に規定されていた。しかし、同規則が出された翌八月には、敦賀県は石川県と滋賀県に分属されることになり、これらの規則が実施されることは困難であった。



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