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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
     二 近代教育のはじまり
      学制の発布
 明治政府による近代教育制度の創出は、明治五年(一八七二)の学制の発布以降本格的に行われるが、明治維新後の藩政の刷新のなかで、藩校改革も行われていた。なかでも福井藩の改革は、藩校明道館を明新館と改称し、庶民の入学を許し、外塾・小学校・中学校からなる学校体系と課程の構想をもつ先進的なものであった。またそれまでの洋学教育の伝統を受け継ぎながら、ルセーとその後任のグリフィスら外国人教師が積極的に招かれた(県立藤島高校『百三十年史』)。
 同時に、幕末期に急速に増加していた寺子屋や私塾などの教育機関は、明治期に入ってからも新たな開業をみていた(『福井県教育百年史』三)。
写真67 グリフイス

写真67 グリフイス

 こうしたなかで、五年八月に学制が公布された。学制の構想は初等教育から高等教育まで壮大であったが、とくに初等教育が重視され、近代日本の国家形成を担う人材養成がめざされた。学制の理念は、その前文(「被仰出書」太政官第二一四号)に「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルニヨルナリ、而テ其身ヲ脩メ知ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学ニアラサレハ能ハス」と学校設立の趣旨が述べられ、「以後一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」と国民皆学の原則がうたわれた。同時に身を立てる財本としての学問にかかる費用は、民衆自らが負担することも述べられていた。士農工商という身分が撤廃され、立身のために国民のすべてが平等に同じ教育をうけるという点で、学制は画期的であるが、国家主導の上からの近代化のなかで、公教育には国家を担う人材を養成するという役割があたえられ、教育本来の学習者の発達的観点は稀薄であった。とくに小学校の上等小学四年、下等小学四年をそれぞれ八級に分け、試験に合格することによって進級するという制度(等級制)を導入したことは、その後の近代日本の試験制度と学歴社会の形成基盤として機能したといえる。
 当初の学制構想は日本全体を八大学区・二五六中学区・五万三七六〇小学区に分け、小学校は人口六〇〇人に対して一校、中学校は人口一三万人に対して一校の割合で設置するという大きなものであった。当時は敦賀県と足羽県の併置期であり、第三大学区に所属したが、学制が公布されると敦賀県は「小学規則」(全一四則)を制定し、その第一則に「勉メテ文部省ノ学制ニ傚フヘシ」とうたいつつ「寒村僻土」に普及するための「変則小学」も認めていた。翌六年一月初めには、敦賀県と足羽県で就学督励の布達を出している。前者は文部省からの教育費補助にかかわって「一層厚ク相心得、父兄タルモノ奮思勉励子弟ヲシテ必ス学ニ就カシムヘキ」(敦賀県第三号)と述べ、後者は授業料等の学費支出にかかわって「一般ノ子弟学ニ就候ハ勿論之義」と強調している(「福井県史料」三五)。
 同年一月十四日には敦賀・足羽両県は敦賀県に一本化され、同年四月の学区改正によって敦賀県は、第二大学区(第二六中学区から第二九中学区)に変更された。第二六中学区は本部を敦賀に置き、敦賀・三方・遠敷・大飯郡、第二七中学区は本部を武生に置き、丹生・今立・南条郡、第二八中学区は本部を福井に置き、足羽・大野郡、第二九中学区が本部を坂井港(三国)に置き、坂井・吉田郡という地域割りであった。
 さらに同年六月の県布令では、「智ヲ開キ材ヲ遂ケ生ヲ治メ産ヲ興シ活業繁昌」するためには「四民一同男女ヲ問ハス」小学校に就学するべきであり、「邑ニ不学ノ戸ナク戸ニ不学ノ子弟ナク」と学制の趣旨が再度強調された(敦賀県第五五号)。



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