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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      「開化」の強制
 一揆に対しては、すさまじい弾圧が加えられた。大野郡では一揆がひとまず鎮静すると、三月下旬、官員や鎮台兵の到着を待って、一揆に出動したとみなされた人びとの拷問が長善寺(大野寺町)の「仮断獄所」で開始された。そのようすは、「棒責トテ肌脱、脊中をタヽキ、後ロ手ニしばり、棒にて頭を越し候位ニコジ上ケ、箱責等ニ而、厳敷詮議有之、キャッキャキャッキャ、泣者アリ、真ノ地獄ニ而、門外見聞之諸人、冷汗流れ候」と書き留められたほど、見るに悲惨であった(鈴木善左衛門家文書)。そして、その場で重犯とされた人びとは、ただちに福井の獄舎に護送され、再び拷問にちかい取調べが続けられた。軽犯とされた者には、「村預ケ」の処分が下された。
写真66 断獄所のようす

写真66 断獄所のようす

 これと同時に、各村の代表者が呼び寄せられ、村民一人ひとりの行動を裏づけする調書の作成が命じられた(石黒求家文書)。一揆の際に「南無阿弥陀仏」の名号旗や竹鎗・杖(棒)を携帯した者、連判証を記した者、特定の「悪動」に関与した者(その内容)などを、偽りなく上申することが言いわたされたのである。ここにいたり、人びとをのみ込んだ一揆の高揚は、「村々恐怖甚敷」の文言のとおり、一転してその処分におののく不安や恐怖にかわった(野尻源右衛門家文書)。さらにこのとき、調書と併せて、新暦の採用、時鐘の改定、学校での洋学教育、説教の規制など、一揆で人びとが拒絶を訴えた事柄について、その遵守を誓約する証文の提出が求められた。拷問・捕縛と並行して執拗な取調べがすすむなかで、「開化」の受容がせまられたのである。
 四月四日には、福井に送られた人びとのうち、友兼村専福寺の住職金森顕順をはじめとする、一揆の「首魁」とみなされた六人の死刑が早々に執行された。そのさい県は、「朝威ヲ蔑如、再燃実ニ不可測ノ形勢」にあり、「積弊懲化ノ好機」であるとして、政府への正規の手続きを省いてまで、見せしめのための処刑を急いだのである(上野利三「明治六年敦賀県騒擾裁判の一考察」)。処遇を案じて地元の大野から六〇〇〜七〇〇人が福井に出向いた矢先の出来事であり、集まっていた人たちはもちろん、監舎に残った者も「自ラ力落シ、誠歎キかなしみ、いきじにする事ニなりたり」と、失意の底につき落とされることになった(石黒求家文書)。
 その後、重犯とみなされた百数十人に対しては、七月の刑法改定にともない、政府の指令にもとづく減刑措置がはかられたようだが、収贖・贖罪金(罪の償い金)を科せられた人びとの数を合わせると、一揆による処分者は大野・今立・坂井・吉田(坂井郡の一揆に参加)の四郡で八〇〇〇人をこえた(表10)。
 また、処分者を出さなかった郡でも、飛び火を防ぐための緊急措置がとられていた。一揆直後の三月半ばから七月ころまで、とくに人びとを呼び寄せる行為がきびしく規制され、寺院の梵鐘や半鐘、時鐘などは、たとえ火事でも撞き鳴らすことが禁じられたほどであった。
 こうして、越前を沸き立たせた大事件は終息していくが、その弾圧・処分の過程は、これまで以上に「開化」の威勢をみせつけるものであった。この恐怖の体験を通して、人びとは近代的な秩序や価値のありかたを身をもって知らされたのである。



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