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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      「開化」への憤り
 明治六年(一八七三)三月、新敦賀県の発足直後に、大野郡で真宗門徒を中心とする一揆が起き、その波紋はさらに今立・坂井郡へと広がった(第一章第一節五)。その鎮圧に苦慮した県はこのときの状況を、越前はまさに「挙国沸擾ノ形勢」にあったと政府に告げている(資10 一―六二)。
 この一揆の引き金となったのは、教部省がすすめる教化政策にともなう宗教統制、すなわち弱小寺院の廃合や私的な説教の禁止措置であった。これに抵抗する真宗僧侶や門徒が一揆を先導した。当時の『撮要新聞』(第一一号 明6・2)は、一揆の原因を説くなかで、糊口を失うことを恐れた僧侶が「陰ニ頑民ヲ煽動」したと激しく非難している。また同紙は、人びとが教導職の東部・西部という管轄名称の廃止を告げる「東西両部ノ名号ヲ廃ス」の布達を、東・西本願寺の「名号」(南無阿弥陀仏)の廃止の意味に誤解していたことなどを伝え、いかにも無知蒙昧の徒によって一揆が引き起こされたかのように報じた。だが、一揆に加わった人びとは、単に宗教にかかわる事柄ばかりを問題にしていたのではない。その背景にある「開化」の方針そのものに、激しい憤りをぶつけていたのである。
 一揆の要求は、「耶蘇宗」(キリスト教)を越前に入れないこと、これまで通りに真宗の法談を認めること、学校で洋文を用いないこと、の「三ケ条」の願書にまとめられた。しかし、県が政府に対して、「無識愚頑ノ土民、洋伝ニ属スル物、悉ク皆耶蘇ト相心得候」と伝えたように、人びとは西洋からもたらされた文物のすべてに「ヤソ」のレッテルをはり、これらを一括して排除しようとしていた。一揆のさなかに、「朝廷、耶蘇教ヲ好ム」「断髪洋服、耶蘇ノ俗ナリ」「三条ノ教則ハ耶蘇ノ教ナリ」「学校ノ洋文ハ耶蘇ノ文ナリ」と訴えた人びとの言動からも、「ヤソ」にかこつけて「開化」の諸施策をことごとく拒否しようとした真意がうかがえる。当然ながら地租改正や改暦に対しても、「地券ヲ厭棄、諸簿冊悉ク灰燼トシ」「新暦ヲ奉セス、旧暦ヲ固守シ」などと唱え、断固とした抵抗の構えを示していた(資10 一―六二、六三)。
 「ヤソ」は、江戸時代に禁制とされたキリシタン(キリスト教徒)を意味したが、ここでは転じて、社会から排除すべきものという意で用いられることが多かった。大野郡では、一揆の直前から、散髪を行う者、教導職の採用試験をうける寺院、学校などをいずれも「ヤソ」と呼び、これを忌みきらう風潮がすでに広がっていたという(石黒求家文書)。一揆においても、教導職をつとめる寺院、散髪や学校創設を
写真65 名号旗


写真65 名号旗

すすめる郡長や戸長に対して、「ヤソ退治」と唱えて、打ちこわしや放火による攻撃を浴びせている。ある郡長宅では、当主自らが「家中取片付、仏壇ニ灯明上ケ、柱々に名号張付」け、一揆勢に郡長職の退役を約束して、ようやく打ちこわしを免れるという一幕もみられたようだ(鈴木善左衛門家文書)。さらに、地券発行に携わった旧足羽県支庁や高札場・布告掲示所、富商の家屋などもことごとく攻撃の対象となった。
 また、大野郡に続く今立郡の一揆では、戸長が村びとに散髪を強制した事件が、最初の打ちこわしを誘発する直接の原因であった。この一揆でも、大野郡と同じ内容の「三ケ条」の願書が県側に提出されたが、そこにいたるまでには、散髪の実行、石仏・石塔の除去、学校の創設、新暦の採用などの施行免除を求める声があがっていた(『教義新聞』第二四号 明6・7)。
 要するに一揆は、真宗信仰の擁護を要求の根幹に据えながら、「ヤソ退治」の名目のもとに、旧来の生活様式の一変をせまる「開化」への不満と反発を結集することで、拡大・激化を遂げたのである。そうした点からすれば、この事件にこそ、地域民衆の「開化」に対する偽らざる本心をみてとることができるのである。



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