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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      「開化」に向けた両県の相違
 これまでみてきたように、足羽県(越前五郡を管轄)と敦賀県(越前三郡・若狭三郡を管轄)とでは、散髪の奨励、習俗の取締り、学校・学問の普及などの「開化」を名目にした施策において、その取組み方に相違が認められる。要するに、敦賀県が上からの一方的な施策推進に終始したのに対して、足羽県は前もって区長や戸長に施行の見込み案を提出させ、地域の意向を確かめながら施策を推進させたところがある。足羽県の方が、地域の主体性を重んじていたということができよう。また、廃仏の施策を例にとると、敦賀県が石仏・石塔の除去という強硬策を打ち出したのに対して、足羽県は明治六年(一八七三)一月に説教の禁止を告げるまで、とくに具体的な措置を講じたようすがない。個々の施策においても、力の入れ具合という点で違いがみられたのである。
 こうした両県の相違は、まずもって県政を担った官僚グループの出自や立場の違いによるものと考えられる。敦賀県の場合は、参事の熊谷直光(旧秋田藩士)を筆頭に、職員の過半が他府県から派遣されていた。ところが、足羽県の場合は、全職員が地元の旧藩出身者で占められていた。足羽県は、内実において福井藩を中心とする旧勢力をそのまま引き継ぐ、全国的にも異例な人事のもとに成り立っていたのである。
 足羽県の官僚こそ、かつて当地の支配を担った者たちであった。同県がいくつもの異なる旧藩領域を統一して成立した経緯をふまえれば、画一的な施策徹底を急ぐことがいかに困難であるかということを、彼らは体得していたはずである。五年一月の県政の発足にあたって、同領・他領の意識を取り去り、争論のないよう管内人民に説いたことも、同県が抱える課題を端的に表現したものといえよう。
 六年一月には、大野で戸長・学区取締をつとめる広瀬明が、「当県ノ儀ハ、官其人ヲ得、言路大ニ開キ、万々遺憾無之」としながらも、さらに「管内臣民一般ノ内、温行篤実ノ人ヲ撰ヒ、毎月一回、又ハ両回参集セシメ、大小ノ事件ヲ討論シ、上ヲ不憚、下ヲ不凌、公明正大」を期すことを理由に、足羽県に対し「下議局」の設立を求めている。この建議は『撮要新聞』(第九号附録 明6・1)に公表され、足羽県は新しい下情上達システムの導入を認める方針を示した。
 ところが、六年一月の半ばに、足羽県の敦賀県への併合が決定される。それまで足羽県にあった人びとにとっては、下情上達の途を開く足羽県政から、強硬に施策徹底をせまる敦賀県政に組み込まれることを意味した。そして同年二月、新敦賀県は、県政の発足とともに、「開化」達成の指標とみなすかのように、散髪の実行、学校の創設、廃仏の徹底を旧敦賀県管内の区長・戸長に督促した。同様な督促が旧足羽県管内に向けて発せられた形跡はないが、敦賀県が「開化」達成に向けて施策貫徹の攻勢に転じたことが、情報として伝わらなかったはずはない。それだけに、旧足羽県管内の人びとの不安は、かえって深刻さを増したであろう。



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