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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      高まる学校熱
 「学制」では、「教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ、其費用ノ如キ、悉ク政府ノ正租ニ仰クヘカラサル論ヲ待タス」(第八九章但書)と、個人のための実学主義を説き、学事費用は受益者負担を原則とした。この時期は、政府のきびしい財政事情を反映して、学校にかぎらず道路・橋梁・河川・港湾などの社会資本の整備にあたり、さかんに民力の活用がはかられた。しかし、学校の経費においては、これを生徒の授業料だけで賄うことは困難であり、実際には、学区内の各戸に賦課する学資金や有力者の寄付金にこれを頼らざるをえなかった。
 足羽県では、当初から、学校創設の費用については、県下を「惣会社」とみなして毎戸から出金し、小学生徒の授業料はあえて免除することが考えられていた。しかも、出金の方法には、「貫属」の役人は給与の俵数、「市在」の商工は間口の間数か店舗の見かけに応じて徴収するという案が出されていた(「静斎日誌」)。同県は、「我足羽県庁一人、他国ノ貫属ヲ不雑」といわれたように、全職員を管内出身の士族が占める、当時としてはきわめて稀な府県の一つであったが、学校の創設こそ、さらにあぶれた地元の士族に教員という再就職の途をあたえる絶好の機会となった(『撮要新聞』第一〇号 明6・1)。そうした点からいえば、足羽県の学校教育に対する積極的な取組みは当然のことであった。
 「学制」の公布とともに、足羽県では学校に対する物品や金銭の献納がさかんに行われた。『撮要新聞』は、足羽県学校掛をつとめる富田厚積(旧福井藩士)が編集していたこともあり、この種の事績をつぶさに報じている。明治五年(一八七二)十一月からは、同紙の付録として「学校新聞」を発行し、さらに学校に関する情報を詳細なものにした。
 学資献納を伝える記事の嚆矢は、五年九月、大野の大坂屋七太郎(旧大野藩士・内山良休)が大野小学に金五〇〇円を寄付した件であった。それ以後、学資金ばかりでなく、教場としての寺の提供や村塾設立のための敷地や、塗板(黒板)、腰かけなどの器機の献納もあいついで行われている。また、六年一月には、富田厚積が自ら十一月分の給料を中学費用に献金し、これに続いて同県参事の村田氏寿が一五〇円、同じく権参事の千本久信が一〇〇円を中・小学費用に献金、さらに県庁各課をあげて職員給料の五分の一を中学費用にあてようとする案も出された。こうして、足羽県の廃止を目前にしながら、学校献金熱はいっそうの高まりをみせていた。
 六年二月には、グリフィスの後任として中学教師に招かれていたワイコフ(米人)が、毎月の給料から一〇円ずつを中学費用に献金することを申し入れた。そのさい、ワイコフは、「学校ヲ盛ニスルハ、献金ヨリ宜シキハナシ……福井ノ盛衰、開化ノ度ハ学校ニ関スルカ故ニ、福井ノ人ハ皆ナ此ノ学校ヲシテ、大日本最大一ノ学校トナスコトヲ勉ムヘキナリ」と、献金の主意書をそえている。そこには、学校こそが「開化」の基礎をつくり、地域の盛衰を決定づけるとしながらも、学資金の献納こそが最善の学校育成策であるという、とにかく学校の創設を急ぐ足羽県の願望が映し出されている(『撮要新聞』第一一号附録 明6・2)。 写真64 ワイコフの献金

写真64 ワイコフの献金

 なお、こうした献金活動については、「朝廷ヨリ、学校、道路、橋梁ニハ献金致スベキ儀ヲ御達シニ付」という解釈が広められており、朝廷(天皇)の趣意にこたえる国民の自発的な行為とみなされていた。さきにみた第六〇大区の区塾出頭者の取調べに際しても、学問普及を奨める天皇の仁恵にこたえるものとして、生徒の就学申込みがなされたのである(『撮要新聞』第六号 明5・10)。



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