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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      学校創設のかけ声
 明治五年(一八七二)八月、「学制」が公布され、大学・中学・小学による新しい教育制度の大要が示された。「学制」の公布にあたっては、何より学問は「其身ヲ立ルノ財本」であると、個人にとっての実学の必要性が説かれ、これと同時に「一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」と、国民皆学を実現させるべく、学校教育に対する国民の自発的な取組みが要請された(「被仰出書」)。
 これをうけて、足羽県は五年十月、「学制」の趣旨をあらためて庶民に向け補足・解説した「農商小学大意」を公布した(坪川家文書)。そこではまず、学問は華・士族のもので農工商や婦女子には必要ないとする「旧習」を脱し、管内の区ごとに学校を設立して「僻村近郷ノ小民」にいたるまで学問を普及する方針を示した。そして、新しい農商の学問は、四書五経や史記漢書などを習読させる「旧来ノ学問」とは異なり、「皇国日用普通ノ言語文字」「西洋文字」「算術」「書道」を学び、「人ノ人タル所以ノ道理」「事ニ処シ、物ニ接ハルノ要領」を会得し、「太政官日誌・御布令文・新聞雑誌ノ類」を読んで「朝廷御趣意」や「時世」を知り、「翻訳ノ洋書類」を読んで「外国ノ事情」を察し、「商法物産ノ損益得失ノ道理」を悟るものであるとした。
写真62 「農商小学大意」

写真62 「農商小学大意」

 さらにまた、先進の技術や文物が到来する「文明開化」の時勢に即応するための学問の有効性を強調して、「五洲各国ノ交際交易等相始リ、政体・法律・学術・医道ヨリ以テ、農商百工技芸ニ至ルマデ、古来未曾有ノ方法、新規大発明ノ器機物品等到来致シ、一時文明開化ニ赴キ、世界一大変革ノ時ニシテ、学問ハ方今第一ノ急務」であると説いた。足羽県は、同年六月に東本願寺で国産・舶来の物品を一堂に会する博覧会を開催し、わずか一〇日間で六万人をこえる観覧者を集めており、こうした「殖産興業」に力を入れる県の姿勢が、学問普及の趣旨に反映されたのであろう(『撮要新聞』第一号 明5・8)。
 ところで、この「農商小学大意」の公布に先だち、同年九月、足羽県は「学制」にもとづく学校創設をすすめるため、各区の戸長に対して学校の設立運営についての見込み案の提出を命じている(『撮要新聞』第四号 明5・9)。管内では大野郡の対応が早かったようだが、当時の第六〇区(後の大野郡鹿谷村・遅羽村に統合される一七か村)からは、つぎのような仮案が提出された(山内勘兵衛家文書)。
 一区二〇か村とみなし、元道場か寺堂を借りて二か所の塾(学校)を置き、一人の師匠(教員)で月に一五日間ずつ交互に教える。仮に各村が五人の生徒を出せば一塾は五〇人となり、一日一〇人ずつ登塾すれば生徒は五日に一度、弁当持参で就学することになる。その五人が早朝それぞれ一〇人の弟子に教えれば、さらに各村で五〇人が就学できる。そして、一〇日ごとに読書による学習検査を行う。師匠は県庁に派遣を依頼し、賄料だけ地元で負担する。学費は村の上・中層で割り合い、下層には負担をかけない。たとえ筆や墨を調達できない者も、粉糠を溶き筆の軸を用いて字を学ばせる。
 すなわち案では、現状の生活から時間や人手を奪わず、しかも多くの就学者を出すための方策が練られている。費用負担もできるだけ軽減して、どうしても必要な分は村の上・中層で負担することが考えられていた。ここには、村部の人たちが最初にいだいた学校のイメージ、とくに生活のなかに学校教育をどのように位置づけようとしたかがよくあらわれている。
 五年十一月には、各村を代表する区塾への出頭者と、六歳から一三歳までの全就学人員の取調べが行われたが、その直後に足羽県が廃止となり、区塾発足の動きはみられなかった。その後六年十二月にいたり、新敦賀県の第三一大区の小二・三区(後の大野郡鹿谷村に統合される一一か村)の組合学校として、「本郷村小学校」が開校されている(山内勘兵衛家文書)。
 町部においては、旧藩時代の藩学や私塾・寺子屋などをいったん廃止して、「学制」に準ずる学校の創立設置がすすめられた。五年十一月の段階で、福井市中では、おもに旧藩学の明新館(中学・小学・外塾)を前身とする私立中学と、官立四校・私立一六校の小学の設立が見込まれていたようだ(『撮要新聞』第八号附録 明5・11)。
 このうち、第一私立小学とされた「尚義舎」は、市中の第一区と五区の有志で結ばれた「尚義会社」の経営により、十一月六日に開校式をむかえた。式では、記紀神話で知恵や発明にかかわる神とされた「久恵比古」「少那彦名」の二神を正面に祭り、県の学校係官によって「被仰出書」と「農商小学大意」が読みあげられた。まさに、「復古」と「開化」が平然と同居する光景がみられたのである。ちなみに、同舎は翌六年一月に新聞紙集読局を付設し、毎週日曜日には政府の発行する「太政官日誌」やそのほかの新聞、西洋翻訳書などを無料で閲覧できるようにした(『撮要新聞』第七号 明5・11、第九号 明6・1)。
 また、六年一月八日には、第二私立小学とされた「含章舎」が、数少ない「女児小学」として開校した。開校式には、入学女子生徒一四〇人を前にして、「従来之弊習トシテ、均ク天地ノ間ニ人ト生レナガラ、男子同様尊キ所以ノ道理アルヲ知ラズ……方今、世界一般、文明開化ノ時ニ生レテハ、婦女子ニモ学問之ナクテハ」と、「農商小学大意」にもまして開明的な論調で、開校の趣旨が読みあげられた。だがその一方では、同舎規則のなかで、往来途中での男子との立ち話、「婦人ニ不似合麁暴、不作法ノ挙動」、かんざしや衣服、履物、傘にいたる「奢侈、美麗ナル粧ヒ」などを禁じ、それらに違犯したときの過料・罰料を定めていた(『撮要新聞』第九号附録 明6・1)。
写真63 敦賀県小学規則

写真63 敦賀県小学規則

 一方、敦賀県でも、五年十一月に「小学規則」を定めている(敦賀県第一六号)。そのさい、管内を三五の大区に分け、さらに一大区を一〇の小区に細分する、大区小区制の導入をはかり、小区ごとに小学を設立することを原則とした。小学区の設定を契機に、一般行政区画の再編までが計画されていたのである。また同規則では、「貧外字困乏ノ民、其子弟タルモノ、其父兄ト手足ノ労及ヒ生計ヲ共ニスルモノ……富家ノ児孫ト同シク校中ニ消日スルヲ得ス」との理由から、小学生徒を「貧富ノ等差」にもとづく四つの等級に分けた。すなわち、一等生徒を午前八時から午後五時までの「九字(時)生徒」、二等生徒を午前八時から正午までの「四字生徒」、三等生徒を午前七時から十時までの「三字生徒」、四等生徒を夜間のみの「夜学生徒」とし、生徒や父兄の意向にかかわらず、階層に応じた就業形態や学費負担の等差を設けたのである。規則のなかでも、「仮令貧外字困乏ノ小民タリト雖トモ、定限中必ス出校受業セサルヲ免サス」と強く念を押したように、敦賀県の場合は何より皆就学の達成をめざしていたといえる。



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