目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      「四民混同」の世
 明治新政府は、士農工商に代表される江戸時代の身分制にもとづく特権や制限、拘束を撤廃し、すべての人びとが天皇のもとに等しく「万民」「臣民」であるとする、新しい国民形成につとめた。明治三年(一八七〇)に平民の苗字使用を許し、四年には散髪・服装・脱刀の自由、移動・職業の自由、身分をこえた婚姻の自由を認め、さらに「穢多・非人」などの賎民制の廃止を告げた。これら一連の政策は、統一した戸籍や土地・租税制度の整備、また「国民皆兵」をめざす徴兵制度の導入のために不可欠であり、国民の自由な経済活動の障害を取り除くためでもあった。しかし一方では、華族(公卿・諸侯)、士族(幕臣・藩士)、平民(農商工)という、また新たな身分をつくりだし、各身分のうちにも種々の社会的差別を残した。
 二年の「版籍奉還」により、藩主は華族に、その家臣団は士族と卒族(五年に解消)に編入されることになった。このとき、越前と若狭の士族・卒族の数は、五四〇三戸・二万六九七〇人(うち、士族二四〇五戸・一万三六五二人)にのぼり、当時の人口の約五・五パーセントを占めた(『藩制一覧』)。士族・卒族は、俸禄(家禄)の削減が行われ、四年の「廃藩置県」にいたって、ついに職を失うことになる。各藩の城郭も入札競売のすえに取りこわされ、城下町は一つの地方都市にすぎなくなった。
 四年十月一日、旧福井藩主と家臣の告別式に同席したW・E・グリフィス(藩学教師)は、そのようすを「それ(告別式)は、封建領主との別れというだけのものではなかった。自分たちの先祖が七〇〇年間生きてきた制度の厳粛な埋葬であった。一人ひとりの表情が遠くを見つめているように思えた。その目は過去をさかのぼり、不確実な未来を探ろうと努めているように見えた」と書き記している(『明治日本体験記』)。旧藩士にとって廃藩という現実は、悲痛のうちに漠然とした未来の不安をともなうものであったにちがいない。その一方で、平民の間には、これまで支配階級にあった士族・卒族の動揺ぶりをあざける声があった。「諸藩共、馬鹿士多く、未タ本心くらくいき上り候者多く、農工商ヨリ眺候時ハ、士たる者何もたわけと相見へ申候」、または「其罪、艮時ニ当り、士卒、赤面きょろきょろまなこ申候、平民是ヲ見テ、大ニ楽ニ致候」などと、かげ口をたたく有力農民もいた(野尻源右衛門家文書)。
 士族・卒族には、一部に県庁官吏や警察官、教員、兵士として再起の途が開かれ、これを機に他府県へ移る者もいた。しかしその多くは地元に残り、失業による生活困窮をよぎなくされた。だが、削減されながらも家禄の支給は九年まで続けられた。
 また士族・卒族とは反対に、社会・経済的に低い立場におかれ、新たな平民の範疇からはみだすような身分や職業の制度的な解体もはかられた。
 四年八月には、「穢多・非人」に対して、その呼称を廃し、身分・職業ともに平民同様に扱うことが定められた。越前の諸県(旧県)では、この賎民制の廃止が、同年九月、華族から平民にいたるまで相互の結婚と平民の襠・袴・羽織の着用を認める布達と同時に、村むらに伝達された。しかしその直前、福井県(旧福井藩)は、戸籍編成のための家屋敷の番号づけに際して、「番非人・穢多・皮屋ハ番外之事」と、一般平民との区別を指示している(坪川家文書)。これでは、戸長の事務レベルでも、賎民制廃止の受けとめ方にかなり混乱が生じたであろうと思われる。
 一方、若狭の小浜県(旧小浜藩)では、有田村の庄屋「御触書写」にみるかぎり、賎民制の廃止が伝えられなかったようだ。その知らせが届いたのは、五年一月、同県を併合した敦賀県政の発足直後のことであった。この時期、他府県では差別撤廃への反発から一般民衆が被差別部落を襲撃する事件が起きており、小浜県がこうした事態を招くことを恐れ、意図的に布達の公布を遅延させたことも考えうる。なお、その後の五年七月、敦賀県は伊勢神宮大麻の各戸頒布について「寺并ニ非人穢多ニ到ル迄、一軒も洩なく配札」するよう告げており、この期にいたっても、いまだ公然と「穢多・非人」の称を用いていた(岡本卯兵衛家文書)。
 また五年八月ころ、足羽県では「乞食」の解消策が議論されていた。同県は管内各区に乞食取締りの見込み案を提出させたが、提案の大筋は「本籍ヘ還シ、老幼ハ精々介抱救育シ、丁壮ハ勧励業ヲ執ラシメ、或ハ使雇スル」ことで一致したという。一見、穏やかな内容にみえるが、具体的な提案事項には、乞食を一般社会から隔離・排除しようとする、きわめて強引な対処法が含まれていた。たとえば、足羽・丹生郡の戸長は、郡内の適地に乞食の「追込小屋」を設けて就業させ、脱走した場合は「追込小屋ヘ入レ、猥ニ出入ヲ止メ、旧番非人ノ者ヲシテ守護」させる、これに必要な番賃・諸入費は郡の戸数割で賄う、という内容の案を提出している(坪川家文書)。翌九月末には、乞食には米銭をあたえず、本籍のない者は「徒場」に送ることを内容とした取締法がまとめられ、県より正式に布達されることになった(『撮要新聞』第九号 明6・1)。
 五年十月には、「人倫ニ背キ有マシキ事」であるとして人身売買が禁止され、「娼妓・芸妓等、年季奉公人」の解放が命じられた(太政官布告第二九五号)。五年十一月の『撮要新聞』(第七号)は、娼妓・芸妓を親元に帰したために花柳界の火が消え、武生町でも「店頭ノ商売、悉ク其障リヲ受サル者ナシ」といった状況にあると報じている。
 この解放と同時に、娼妓・芸妓に対する前貸し金の返済請求も禁じられた。そのさい、政府が「娼妓・芸妓ハ、人身ノ権利ヲ失フ者ニテ、牛馬ニ異ナラス、人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」と説明したことから(司法省第二二号)、これに当てつけたように娼妓・芸妓を「牛馬」と呼ぶ風潮が広まった。六年一月の『撮要新聞』(第一〇号)も、自ら「牛馬」と名乗って座敷を勤める芸妓の話を取り上げている。
 またしかし、この解放には、本人の発意による場合は営業を認めるという抜け道が用意されていた。八年一月からは「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」が施行され、区長の免許鑑札をうけた娼妓が、貸座敷業者から座敷を借りて営業する方式に切り替えられた(「敦賀県報告」)。結局のところ、公娼制度はかたちを変えて存続することになったのである。
 ところで、五年十一月に足羽県は散髪の奨励にあたり、「四民混同之公布」の趣旨に触れて、四民の間には「平常衣服ヲ始、形様」に「等差」がないと説いている(坪川家文書)。そこにもみられるように、「開化」の名による身分制の解体は、ともすれば外見や形式の問題に流れがちで、四民あるいは万民混同ではあっても、四民平等と呼ぶにはほど遠い現実があったといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ