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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      暦と休日
 明治五年(一八七二)末には、それまでの太陰暦にかえて太陽暦が採用され、同年十二月三日をもって六年一月一日と改められた。これと同時に、一日を二四時間とする定時法が採用された。さらに改暦とあわせて、旧来の人日(旧暦一月七日)・上巳(同三月三日)・端午(同五月五日)・七夕(同七月七日)・重陽(同九月九日)の五節句が廃され、神武天皇即位日(紀元節)と天長節の両日が国家の祝日に定められることになった。
写真60 太陽暦

写真60 太陽暦

 この太陽暦と定時法の採用は、外国との交際・通商の上から必要とされたことであるが、生業と密接に結びつき、人びとの生活リズムをなしていた暦や時刻を改めることは、一般庶民にとって容易な問題でなかった。大野郡では、新暦六年の正月元旦をむかえても、「万民俄之事ニ而、其仕度調不申」との理由から、氏神への参詣だけで済まし、「下々、極内々之取斗」で正月二十日に「跡正月」を祝っていた。またその後も、「下々」は陽暦を一向に用いず、ただ「官員、華族、区戸長、旧藩士族、神官僧侶」は陽暦を用い、「町人」は陰暦・陽暦を取りまぜて用いるという具合であったという(野尻源右衛門家文書)。身分や階層、あるいは場所や用途に応じて、陽暦と陰暦を使い分けることがごく普通に行われていたのである。
 祝祭日の統一もようすは変わらなかった。六年以降の新敦賀県において、市街地では「毎戸国旗ヲ掲テ慶祝」する光景もみられたが、村部では「未タ祝日ノ何物タルヲ知ラサル者アリ」というような状況であったという(「福井県史料」三四)。
 もとをいえば、休日は町や村それぞれに決められていた。そこでは、四季折々に営まれる行事のための定例の休日のほかに、さまざまな臨時の休業日が設けられていた。『福井県農事調査書』によれば、農村では、虫害・干害の際の「虫送り」「雨乞い」のほかに、田植後の「休業」(今立・南条郡)「皐月休」(遠敷郡)「大休」(大飯郡)、天候から作柄を占う「順気休」(敦賀郡)、豊作が見込まれた年の「盆返シ」(坂井郡)、そのほかに「肩休」(足羽・吉田・坂井郡)「月休」(遠敷郡)などといった休業日があった。ここで一年間の休業日の日数を郡別にまとめてみると、多いところでは敦賀郡の七〇日前後となり、村によってはさらに月一、二回の休業日が設けられていた。一方、少ないところでは、足羽・吉田・丹生郡の一五、六日程度となるが、これには臨時の休業日が含まれていないように思われる。休日のあり方は、地域によって日数や内容に相違がみられたのである。
 また、休業ということでいえば、春から秋季にかけての時期に、日中二、三時間の「昼寝」を行う習慣が各地でみられた(『福井県農事調査書』)。これは、新聞にも「恰も夜間と一般、すべて枕に就きて酣睡する……商家の主人寝ね、番頭寝ね、職人寝ね、日雇寝ね、行商人寝ね、戸は閉さゞるも家々みな夜中の観を呈する」と報じられたように、昼間にかなりまとまった睡眠をとる習慣で、村部ばかりか市街地にも広がっていた(『福井新聞』明19・5・14)。古くからこれを「越前の昼寝」と呼び、自らさげすむ風もあったようだが、越前に限らず若狭各郡にも同様な習慣がみられた。さらに今立・南条郡の山村では、毎朝輪番で各戸に集合し、いろりを囲んで二時間余りの談話の後に仕事にかかり、午後は二時に昼食をとって、夜間「星ヲ戴テ始メテ帰休ス」という、また固有の習慣があったようだ(『福井県農事調査書』)。
このように、地域では、それぞれの生業に応じた生活リズムが、休日や休息の習慣となって深く根づいていた。七年には祝祭日・日曜日が小学の休業日に定められ、教育を通じて新しい暦と時法にもとづく生活習慣が普及しはじめる(「敦賀県小学校則」)。しかし、これが農村の日常生活にまで浸透するには、明治後期から大正期を待たなければならなかった。
写真61 敦賀県小学校則

写真61 敦賀県小学校則




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