目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      「旧習一洗」の波
 教部省が主導する教化運動の過程では、「旧習一洗」のかけ声のもとに、地域の伝統的な生活習俗や民俗信仰に対する規制や干渉が強められていった。
 越前では、真宗の信仰を核としながら、盆会、節句、火祭り、風祭り、雨乞い、虫送りなどの民俗行事や、「加持祈外字、及ビ魅狐ヲ勧請シ、御夢想ノ薬ヲ戴ク」などのいわゆる「俗信」もさかんであった。足羽県では、これらを一括して「開化」を妨げる「弊習」「陋習」とみなし、真宗同様にその廃止を求める声があがった(『撮要新聞』第三号 明5・9)。ただし、同県が具体的な行事の規制に踏み切ったようすはない。
 一方、敦賀県の方は、明治五年(一八七二)十一月に、「陰陽家」「神子巫」「神下シ」などの所業を「文明ノ域ニアルマシキ事」として禁じた(敦賀県第四四号)。なかでも「神下シ」に対しては、「其輩、多ク狐ヲ稲荷ト心得ル奴ナリ、狐ヲ稲荷ト心得ル馬鹿モノハ、狐ニ使ルヽタワケナリ」と、痛罵を浴びせている。また、六年七月には、新敦賀県が、「男女雑踏、猥褻鄙野其風教ニ障礙アル」習俗として、盆踊りの廃止を管内に告げた(敦賀県第六五号)。 写真59 陰陽家廃止の布令

写真59 陰陽家廃止の布令

 だがしかし、こうした規制がどれほどの実効をあげたかは明らかでない。六年以降、新敦賀県では、福井や小浜の市街地を中心に伝統的な行事を廃止する傾向にあったようだが、十年代に入ると再燃する動きもみられたという(「福井県史料」四、三四)。
 また風俗に関しては、何よりも散髪が、「開化」の進度をはかる指標のようにして奨励された。五年十一月、敦賀県は、「方今ノ御趣意ハ、総テ繁キヲ去リ、簡ヲ取リ、便ニツキ、不便ヲヲク」との観点から、「散髪シテ其御趣意ヲ奉シ、早ク開化ニ進ムコソ、方今ノ民タルニソムカズ……旧弊顧慮ノ念ナク、断然散髪可致モノ也」と、散髪の実行を強く求めた(敦賀県第四一号)。一方、同時期に出された足羽県の散髪奨励の布達は、「他ヲ顧ミ、致遠慮居候様之儀、無之様」と、穏やかなものであったが、その直前に同県の郡中惣代が連名で、「風俗ヲ一変スルハ人心ヲ一洗シ、旧習ヲ脱皮スル大基ニテ……断然断髪之御布告有之候様仕度」と、散髪断行の発令を求める建言書を県に提出している(岩堀健彦家文書)。当時の郡中惣代は、江戸時代の大庄屋を引き継ぐような役職であったが、有力農民の間にも、「開化」の趣旨を先取りして民衆の風俗改良をはかろうとする動きがみられたのである。
 しかし、散髪の奨励は実効をともなわないばかりか、地域では散髪を行う者を「周章者」と誹謗する向きさえみられた。ある者が家内の理解をえられず散髪が原因で離縁放逐されたという、暗に散髪奨励を非難するうわさ話も広がっていたようだ(岩堀健彦家文書)。そこで、六年二月に新敦賀県は、「区中、結髪之者有之は、区戸長ニ於テ其責免カルヘカラス」と、散髪の徹底を区長や戸長に強くせまった(三田村清助家文書)。これをうけて、旧敦賀県の管轄下にあった今立・南条郡では、区長が戸長に散髪を拒む者の名簿を差し出すよう命じており、翌三月には戸長による散髪の強制がついに今立郡の一揆を触発することになった。また大野郡でも同様に、「無理ニ人こぞりて、暴はつ(髪)しられる者もアリ」と、暴力をもって強制的に散髪を行わせたようである(石黒求家文書)。
 その後、新敦賀県における散髪の普及度は、おおよそ士族で九割以上、商工民で一割、農民で一分以下であったという(「福井県史料」三四)。これをみるかぎりでは、散髪の強制策はあまり功を奏しなかったといえよう。だが、ここで士族が「開化」を率先して受け入れていることにも注目しておくべきだろう。またちなみに、大野郡の村部では、十年代になっても散髪する者と結髪する者が二分する状況にあると報告され
ている(「福井県史料」四)。



目次へ  前ページへ  次ページへ