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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      仏教・僧侶の受難
 越前は、仏教のなかでも真宗信仰のさかんなところで知られる。明治三十五年(一九〇二)の統計でみると、福井・足羽・吉田・坂井・大野・今立の一市五郡では寺院総数の約七割、越前一帯でみても約六割の寺院が真宗に属する(『県統計書』)。これに加えて、真宗の場合は寺院の末に道場が存在していたことを思えば、その勢力は絶大であったといえる。
 明治元年、明治政府は神仏分離の推進にあたり、その趣旨が排仏でないことを真宗各派に諭達した。また同四年には寺領上地を断行したが、どちらかといえば寺領を経済的基盤としない真宗の場合は、その打撃が少なかったという見方もできる。しかし、実際に地域の真宗僧侶や門徒がうけた排仏の衝撃は、決してやさしいものではなかった。
 真宗の道場は、多くの場合、村に住む「道場守」によって維持管理されていた。足羽県は戸籍法の施行にあたって、「僧業」「民業」の区別を明らかにするため、こうした半僧半俗の身分にある者に対し、正規に寺に所属するか、脱衣蓄髪して民籍に入るかの選択をせまった(坪川家文書)。さらに、道場そのものが無檀徒であれば、たとえ寺号をもつものでも廃寺の対象となった。丹生郡宿浦(越前町)の善性寺のように、本寺とする今立郡横住村(今立町)真勝寺から「預門徒」三〇戸の名を借りて、ようやく廃寺を免れた例もある(『越前町史』下)。真宗勢力を末端で支えてきた中小の道場は、宗教施設として存続の危機に直面したのである。
 また、排仏の風潮が高まるなかで、仏教や僧侶の活動を公然と批判する動きも広がっていった。五年八月、足羽県新聞会社が創刊した『撮要新聞』は、各号にわたって排仏の論調を鮮明にしている。同紙は、「数百年来、仏法蔓延」した越前において、僧侶は「此有難キ文明開化ノ秋ニ当テ……徒ニ愚民ヲシテ、益々愚ニオトシ入レ」るものとし、とくに勢力を保っていた真宗と日蓮宗に非難の矛先を向けた。 写真58 『撮要新聞』

写真58 『撮要新聞』

 同紙には、読者の投書記事がいくつか取り上げられているが、「報国有志」と名乗る投書は、地方官より毎戸配布が定められた伊勢神宮の大麻の授受に際し、日蓮宗徒がこれを仏壇にしまい込むことを指摘し、「不浄不敬ノ致シ方、誠ニ見聞ニ忍ビス」と、その糾弾を求めている。また、「病院主務」と名乗る投書は、真宗僧侶の説く往生安心の法話を聞いて入院患者が危篤になった事件を紹介し、「此僧、来ラザリセバ、此危篤ニ至ラザル事ウタガヒナシ……方今、文明ノ時ニ当テ、僧俗トモ昏夢ノ醒ザルハ憐ムベク」と、患者の容態悪化を法話にこじつけてまで僧侶の批判を行っている。仏教・僧侶こそ、いまや「開化」を妨げる「非文明」の代名詞のように扱われていたのである(『撮要新聞』第七号 明5・11、第一〇号 明6・1)。
 ところで、五年三月から政府には教部省が置かれ、これまでの急進的な神道国教化政策を改め、天皇の崇拝と新時代に向けた「文明開化」の価値を国民に啓蒙する、新たな教化政策が模索されはじめた。これを機に、神官・僧侶をともに教導職として採用し、宗教界を総動員した布教体制がしかれることになる。
 ここでの布教の内容は、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説くこととした「三条の教則」にもとづくものであった。したがって僧侶の説教も、宗意をこえて「朝旨貫徹、民心帰留」のための説諭を行うことが求められた(瑞祥寺文書)。そして六年一月には、ついに各宗管長の許可をえない説教はいっさい禁じられることになり、これをうけて、足羽県はただちに「社寺は勿論、平民之宅ニ於テ、多少不拘、男女招集メ、私ニ説教候義、堅令禁候」(瑞祥寺文書)と、私的な説教の禁止を告げた。これは事実上、真宗門徒の間で行われていた法談や説法を禁じたものであり、この措置が、同年三月の大野郡での一揆を導く直接の要因となったのである(第一章第一節五)。
 天皇の絶対権威のもとに、西洋文明を範とする合理主義を唱える「開化」の立場からは、極楽往生という来世への安心を信仰の核とした真宗門徒の生活態度こそ、まったく否定すべき「頑民」「愚民」の「弊習」にほかならなかった。しかも、真宗門徒の間では法談・説法などの日常的な信仰活動がさかんであったことが、いっそう非難の的を大きくする結果を招いた。二十三年にまとめられた『福井県農事調査書』でも、真宗がさかんな坂井郡の農民について、「彼ノ約束説(極楽往生)ニ拘泥シ、甚タ活発ノ気象ニ乏シク……勤倹勉励ノ風、頗ル薄ク、夜業等、近時ニ至ルマテハ殆ント絶無ノ姿ナリシ」と評価を下し、真宗に帰依する生活態度を農業生産の向上を阻害する「欠点」としている。



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