目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      地域神社の変容
 郷社・村社を選定するにあたっては、これまで地域民衆の信仰に委ねられてきた氏神、鎮守、産土などの、神社としてのあり方が大きな問題となった。
 明治四年(一八七一)九月、本保県(政府直轄県として三年十二月に発足)は、村むらの神社における「神仏混淆」を禁じ、神社の「仏体仏号」をはじめ、「埋処、寺院之外」の「道傍、田園、畝、宅、山林」などにある堂宇・石仏・石塔までも、すべて取り除くことを命じた。さらに、「神仏分判検査」の上に郷社・村社の社格を定めるとして、官員出張による神体巡見の実施を予告した(小島家文書)。この神仏混淆を禁ずる方針は、その後敦賀県に引き継がれた。五年十一月に同県は、石仏などは敷石や靴脱ぎに用いてよいとまで言い放ち、しかも官員巡見の際に不行届きな点があれば区長・戸長等の落度であるとして、排仏の徹底を強要したのである(敦賀県第四二号)。
 これをうけて、たとえば南条郡河野浦では、旧来の僧形の神体を近隣の寺に移し、あらためて「八幡太神」の勧請を願い出ている(河野区有文書)。こうした対応が各地でみられたものと思われる。
 地域では、神社における神仏の習合はごく自然な姿であった。神社といっても、権現や菩薩の仏号を社名に用いたり、薬師・観音・地蔵・阿弥陀・毘沙門などを名乗る堂・宮が多く、その大半は仏像を安置していた。六年二月に新敦賀県は、「中身のみにして、堂宇外面ハ依然」そのままであると、神仏分離の不備を再三指摘したが、長年培われてきた神仏習合の信仰形態をただちに払拭することは困難をきわめた(岡文雄家文書)。
 だが、郷社・村社の選定に際しては、「淫祠ヲ毀チ、正祠ハ其地ノ一社ニ合併シ」と報じられたように、由緒や体裁の整わない社をこわし、選定にもれた社は最寄りの郷社・村社に合祀させるという、強引な方針が示されていた(『撮要新聞』第六号 明5・10)。これにもとづく神社廃合の動向は明らかでないが、排撃の対象となったのは仏教ばかりでなく、中小の堂・宮も同様であったのである。神社制度の整備は、国家の祭祀を執行するにふさわしい神社を地域に創設することが、根本のねらいであった。
 では、この時期をはさんで、それ以前と以後とでは地域の神社が実際どのように変化したのであろう。いま、直前にあたる江戸末期のようすを伝える史料が見当たらないので、ここでは大野郡(旧大野藩領の村むら)を例にとって、江戸中期と明治前期の状況を比較してみよう。

表51 大野郡の地域神社の新旧比較

表51 大野郡の地域神社の新旧比較
 表51にみるとおり、同郡では、かつての「白山大権現社」に加え、「観音堂」などを「白山神社」に改称したと思われるところが多く、結果として白山神社の数がずいぶんふえている。参考までに大野郡全体でみると、明治前期に白山神社の比率は三四パーセントあまりにも達している(「大野郡神社明細帳」)。また、「薬師堂」の場合は、そのほとんどが「少名彦神社」と改称しており、社名の変更が一定の方針にもとづいてなされた形跡がうかがえる。祭神においても、かつては仏体のところが多かったものが、白山神社は「伊奘冊尊」「伊奘美尊」、八幡神社は「誉田別尊」、春日神社は「天津児屋根命」、神明神社は「天照皇大神」などと、社名と対をなすように記紀神話の神々が振りあてられている。
 社名や祭神を中心に、求められた神社としての体裁が大急ぎで整えられたのであろうが、各村各社の個性はほとんど失われてしまった。だがしかし、この変革の要請にこたえることこそ、地域の神社が廃合を免れる唯一の方途であった。



目次へ  前ページへ  次ページへ