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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      新しい神社制度
 王政復古による祭政一致をスローガンにかかげた明治新政府は、天皇の宗教的権威を裏づけるように、神道の国教化を推しすすめた。そのさい、まずは仏教に従属することが多かった神道の優位独立をめざし、習合していた神道と仏教の分離を命じた。この施策は、神社における仏教色の除去に端を発したが、その過程では仏堂や仏像、経典を破壊・処分する廃仏毀釈の風潮をひき起こし、神仏分離を通りこして仏教排撃の気運を高めることになった。
 越前においても、明治四年(一八七一)、福井藩が天台宗四二、浄土宗一〇、真言宗九、曹洞宗七、日蓮宗七、臨済宗五、黄檗宗二、時宗一、真宗一の計八四か寺を「無禄無檀」の寺院として政府に廃合処分を伺い出たこと、さらに白山修験道の拠点であった平泉寺が仏堂・仏像・仏具などの破壊・処分の末、白山神社に改変されたことが、すでに知られている(『明治維新神仏分離史料』)。
 またその一方で、神道の国教化にあたり、地域の大小の神社をも取り込んで、伊勢神宮を頂点とする神社の体系的な序列化がすすめられた。政府はまず四年五月に、神社を神祇官所管の官社と地方官所管の諸社に大別し、諸社に府社、藩社(同年七月、「廃藩置県」により消滅)、県社、郷社の社格を設けた。ついで同年七月には、とくに郷社について、戸籍法にもとづく戸籍区(およそ千戸)に一社を置くという、具体的な選定基準を示し、他の有力な神社は村社とする方針を打ち出した(「郷社定則」)。
 さらに、これと並んで「大小神社氏子取調規則」を同時に公布し、郷社や村社に列格した神社から、当該戸籍区の戸長を介して、すべての人民に氏子守札を発行することとした。いわゆる、氏子調べ、氏子改め制の導入である。ここにその規則の要点を記すと、出生児は戸長の証書をもって神社に参り守札をうける、まだ所持しない者も老幼を問わず同様に戸長を通じて神社から発行をうける、他に移転する際はあらためてその地の神社から守札をうけ併せ持つ、死亡した場合は戸長を通じて神官に守札を戻す、などであった。
 郷社・村社は、氏子改めを行い新たに導入される戸籍制度を補完するという、きわめて行政的な役割が担わされたのである。このシステムは、江戸時代に寺院が担った寺請・宗門改め制に似たところがあった。 写真57 氏子守札

写真57 氏子守札

 五年二月に足羽県は、管内の区制の整備にともない、あらためて各区の郷社を定めるため公選入札の実施を指示し、その結果を早々提出するよう求めた。またこれと併せて、村むらにあるすべての神社について、その由緒・縁起や氏子の有無を報告するよう命じている(坪川家文書)。社格の選定結果は、表50にまとめたように、教部省の認可をえて決定された県社・郷社・村社の一覧として、五年十一月に公表された(岩堀健彦家文書)。 これによれば、郷社を兼ねる県社とされた福井の神明社を筆頭に、戸籍区を連合させて計二〇の郷社を定め、残ったいくつかの有力な神社を村社に配置している。先に政府が示した、郷社は戸籍区に一社という基準をこえ、きわめて広い氏子区域が策定されたわけである。

表50 足羽県の県社・郷社・村社

表50 足羽県の県社・郷社・村社
 ここに決定された郷社・村社による氏子改めの実施過程は、これを伝える史料があまり残されていない。ただ現在のところ、三国の桜谷神社、丸岡の国神神社、下兵庫(坂井町)の春日神社、大森(清水町)の加茂神社、松岡の柴神社、勝山の神明神社の郷社に加え、沢村(金津町)の春日神社の村社が発行した氏子守札が見つかっている。また、松岡柴神社の氏子守札の発行に際しては、一戸につき一七匁六分の実費を徴収したことが確かめられる(境五文書)。
 この氏子改めは、六年五月をもって中止された。そもそも地域によって形態や内容の異なる神社・氏子の関係を、いかにも画一的なものとみなし、しかもいきなり戸籍制度に転用をはかったところに無理があった。これにともなって、「郷社定則」も事実上その意味を失い、以後、郷社・村社の指定は戸籍区との関係を離れて行われることになる。



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