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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      あふれる布達と戸長・副戸長
 明治五年(一八七二)、足羽県と敦賀県は、それぞれ旧県から引き継いだ管内の区割を改め、戸籍法にもとづく区制の整備にとりかかった。この区制は翌六年に新敦賀県において、大区をさらに小区に分ける二段階の区制、いわゆる大区小区制へと改編され、旧来の町や村を統合した新しい行政区画を導入するための試行錯誤がくり返された。そして、この過程で、庄屋・組頭・長百姓などの旧村役人の名称が廃され、かわって戸長・副戸長が区に置かれることになった(第一章第二節五)。
 村役人から引き継いだ戸長・副戸長の仕事は、租税の徴収と戸籍・徴兵・教育にかかわる事務に加えて、政府や県が発した布達を区内の村むらに伝達し、その趣旨を徹底させることであった。この時期は、新政策の発表や制度の改廃があいつぎ、その趣旨や内容を掲載した布達の量は、急増の一途をたどった。「敦賀県布令書」に付された番号を追っただけでも、一年間の量は六年に一九八号、七年三〇八号、八年三二六号に達する。
 これらの布達は、各区内の町村順に伝達回覧され、戸長や副戸長はそのつど文面を書き留めて置かなければならなかった。足羽郡種池村(福井市)の坪川家に残る帳面を例にとると、四年八月から六年三月の一年八か月の間に、総計三九五件にのぼる膨大な布達文書が写し取られている(『福井市史』資料編一〇)。また、坂井郡川上村(丸岡町)の副戸長が、「此御触、明治五年申二月四日夕、東山ヨリ参リ、夜中ヨリ漸々写取懸リ、翌朝五ツ時ニ山久保ヘ送ル」と書き留めたように、布達の筆写作業は夜を徹して行われることもあり、ときには「余リ長文故、不写留候」などと、あえて省略をはかるほどの過重な仕事であった(川上区有文書)。
 量の問題もさりながら、布達文書に漢語がふえたことがまた、趣旨の伝達徹底に大きな障害となった。維新期以後、「文明開化」や「富国強兵」に代表されるような和製の新造漢語が多く用いられ、布達文書の読みや解釈には、これまで以上に漢文の素養が必要となった。五年末の足羽県では、庶民の多くが人力車を「りんりきしゃ」、戸長を「とちょう」などと呼んでいることを新聞が取り上げている(『撮要新聞』第四号 明5・9)。そうしたことからも、布達の伝達に際しては、「事件ノ軽重ニヨリ、或ハ文面解シカタキ布告書ノ類ハ、区長ニ於テ、各小区戸長・副ヲ呼集メ、誤解セサル様明弁」することとし、大区を統轄する区長から戸長・副戸長に向けて趣旨説明を行うことがあった(資10 一―一〇五)。事実、布達文書のなかには、たとえば「協和敦睦」に「けふくわとんぼく」「やハらきむつまじ」、「勉励尽力」に「べんれいじんりよく」「つとめてちからをつくす」などと、難解な熟語に仮名で読みや意訳を付した文面がよくみられる。政府や県もさまざまな対策をねっていたのである。
写真56 「協和敦睦」

写真56 「協和敦睦」
 だがしかし、戸長・副戸長が書き留めた布達の写しには、急いだせいもあるのか、誤字脱字が散見され、とても内容を理解していたとは思えない文章が少なくない。七年の大野郡横枕村(大野市)において、副戸長が数かずの「御布令之趣、何も忘れ帰村いたし、小前へ申渡も出来」ず、これまでの布令も「難字計りニ而、不学民間不分候」と、自村の実態を嘆いた一文があるが、これもあながち誇張とはいえないようだ(野尻源右衛門家文書)。
 とはいえ、趣旨の不徹底から管轄区域で不備な点が認められたときには、戸長・副戸長は、準官吏に待遇された身分の上からも責任が問われることは明らかであった。後述するように、地域における排仏や散髪の奨励においても、それを徹底させることが戸長・副戸長の責務であった。また一方、六年三月の大野郡や今立郡の一揆でみられたように、国や県の施策に対する民衆の反発は、まっ先に地元の戸長・副戸長に向けられた。いわば戸長・副戸長は、統治する側とされる側との接点にあり、つねに板挟みの立場に置かれていたのである。
 その苦渋からか、当時しきりに戸長・副戸長の退役願いが提出され、六年五月に新敦賀県は、「官ヨリ申付候モノ、相辞シル義ハ決シテ軽易疎忽之事ニアラサル」と強くこの動きをいさめている(岡文雄家文書)。そして、これを機に辞職認可の条件がきびしくなり、戸長・副戸長はいっそう窮地に追い込まれることになった。



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