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 第一章 近代福井の夜明け
   第五節 明治前期の教育・社会
    一 文明開化と地域社会
      県制の施行と地域意識
 明治四年(一八七一)七月の「廃藩置県」の後、越前・若狭には、江戸時代の支配領域をそのまま引き継いだ、本保・福井・丸岡・大野・勝山・郡上・西尾・鯖江・加知山・小浜県の計一〇県の管轄地が混在していた。それらは、同年十一月に福井県と敦賀県という二つの大きな県に統合されることになるが、この二大県の設置こそ、本来明治新政権の企図した新しい県制の始まりであった。
 そのうち、足羽・吉田・坂井・大野・丹生の越前五郡を管轄する福井県は、同年十二月に県名を足羽県と改め、翌五年一月にいたって新県の発足を管内人民に告げた。ところが越前は、江戸時代から多くの異なる支配領域が入り交じっていたため、足羽県はまっ先に、これまでの同領、他領の意識を取り去ることを管内に説諭しなければならなかった。村役人には「一同天領」になったとの比喩を用いて「四海一家」の趣旨を説き、村むらの地境に「足羽県管轄所」の榜示を立てるように命じた(野尻源右衛門家文書)。これまで、それぞれ異なる制度や慣例のもとに支配をうけてきた越前の人びとには、細分化した支配のワク組みが取り払われ、自村他村ともに同一の県域となったことが、まずもって世の中の大きな変化と映ったであろう。 写真55 足羽県管轄所榜示

写真55 足羽県管轄所榜示

 それが六年一月になると、越前八郡のうち今立・南条・敦賀の三郡と三方・遠敷・大飯の若狭三郡を管轄していた敦賀県が、先の足羽県を合併することとなり、今日の福井県とほぼ同じ県域をもつ新たな敦賀県(以下、新敦賀県とする)として発足する。ところが、八年になって、敦賀に置かれていた県庁の移転をめぐる議論が浮上してくる。それは、県庁の福井への移転をとなえる「木芽嶺以北」、すなわち「嶺北」人民の主張と、移転の反対をとなえる「木芽嶺以南」、すなわち「嶺南」人民の主張との対立であった。そのさい、「嶺北」側は、県庁が遠隔地にあることの不便な点を連ねて、人口の絶対多数を拠りどころに移庁がもたらす公益を訴え、一方「嶺南」側は、開港予定地である敦賀の経済地理的な重要性をもってこれに反駁した。これを機に、旧来の国名に由来した「越前」「若狭」とは異なる、「嶺北」「嶺南」という新たな地域意識が、政治や経済、あるいは日常生活の集団的な利害と結びついて人びとの間に根づいていった。
 またところが、九年八月、移庁の議論に終止符を打つかのように新敦賀県が廃止され、「嶺北」が石川県に、「嶺南」が滋賀県に併合されることになる。だがしかし、石川県に編入された「嶺北」(当時「南越」と呼んだ)は、病院や学校などの公共施設の誘致や土木費の徴収方法をめぐって同県に属する「能登」「越中」との地域間の対立を起こし、とくに新敦賀県から引き継がれた地租改正事業に対しては、桐山純孝県令を辞職に追い込むまでの執拗な抵抗運動をくり広げた。その結果、十四年二月になり、石川県令の建議にもとづいて、再び「嶺北」「嶺南」を合わせた福井県が誕生することになるが、こうした過程は「嶺北」「嶺南」の地域意識をより強固なものとし、両者の溝をさらに深めることになった。福井県の設置に反対して、「嶺南」四郡でくり広げられた滋賀県への復帰を求める復県運動は、なによりそのことを端的に物語る出来事であった(第一章第二節一、二)。



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