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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    六 国会議員の誕生とその動向
      『若越自由新聞』の創刊
 総選挙の直前、自由三派合同の協議が成立し、明治二十三年(一八九〇)六月十七日、庚寅倶楽部の誕生をみた。三派の解散は選挙後に延期され、八月四日に愛国公党と再興自由党が、同十七日に大同倶楽部が解散した。そして八月二十六日、立憲改進党を除いた民党すなわち庚寅倶楽部、九州同志会その他が合同し、立憲自由党が結成された。
 九月二日、立憲自由党は議会における運動方針および政務調査のため、また相互の親交のため弥生倶楽部を設立、政務調査を六部に分けた。青山は内閣、憲法および両院に関する第一部に、杉田と永田は外務、海陸軍に関する第二部に、藤田は司法省に関する第三部に属した。このようにして福井県の四人の代議士は立憲自由党に属しまた杉田、永田は党の常議員となり議会活動を始めた。
 さて、第二次『福井新聞』はいちおう自由派の色調を維持継続したものの、南越倶楽部の内部あつれきの一翼を担う過程で県内自由派機関紙としての機能は低下し、改組後の同倶楽部の批判をもうける状況であった。八月の段階において、すでに同新聞に代わる県内自由派の機関紙の刊行が企図されていたのである。橋本直規より杉田あてに「新しい新聞刊行の急を坂井郡有志に申進める要」が書き送られ、また橋本自身によって吉田・坂井両郡への遊説が行われた。
 さらにまた敢為会という青年団体が吉田・坂井両郡において作られ、橋本直規、阿部精、大橋松二郎が理事、川端薫一、渡辺環が会計であった。おそらくこれらのことは両郡の主導のもと、南越倶楽部の補強やそれに代わるべき政治組織の樹立と新しい機関紙刊行の準備工作であったと考えられる。そして若干の経緯を経て十一月の中旬、大橋を中心に吉田・坂井両郡の青年層により、やや強引なかたちで新聞刊行のことが決められ、十二月二日に第一号を出すことになった。そして、『若越自由新聞』の発行を、十一月二十日よりの第二次『福井新聞』に数日間広告した(写真54)。発行人は大橋松二郎、編集人は松原栄であった。前途に波瀾を含みながら立憲自由党の県内機関紙が発刊されたのである(杉田定一家文書)。
写真54 『若越自由新聞』の発行広告

写真54 『若越自由新聞』の発行広告

 第一回の帝国議会は十一月二十九日開院式が挙行された。議会では民党が予算案の大削減を求め、政府と激しく対立した。しかし、政府は立憲自由党の一部の切崩しに成功し、ようやく予算案を成立させた。議会閉会後、政府の切崩しをうけた立憲自由党の一部は、脱党して自由倶楽部を組織し、青山、藤田はこれに参加した。また立憲自由党は議会終了後、名称を自由党に改め、板垣を党総理に推戴した。そして自由党は、板垣を先頭に二十四年の夏にかけて地方遊説を行うことになる。
 北陸地方には遊説員として吉田鞆二郎、林包明が派出され、七月十九日に福井に入り二十二日武生、二十六日敦賀と巡回した。この時、武生における懇親会に、県会議員今村七平、河野彦三郎や郡会議員の内田謙太郎、そのほか有志者として丹尾頼馬、黒田道珍、春日甚右衛門、増田耕二郎、三田村甚十郎、松下豊吉、松村甚左衛門(才吉)、水野(内田)慶次郎、宇野猪子部、山崎悠ら五十数人が出席した。そのなかに、二十三年東京専門学校を卒業し帰郷した山田欽二(三田村甚三郎)の名が、有志総代として登場する。以後の県政界の震動を予言するものがあったのである。



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