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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    六 国会議員の誕生とその動向
      南越倶楽部の紛糾と第二次『福井新聞』
 このように四人の衆議院議員と一人の貴族院議員の誕生をみたわけであるが、選挙を通じて生じた各選挙区内での対立抗争は以後さまざま問題を生んだ。とくに、第三選挙区における永田と中島との抗争は、選挙後の第二次『福井新聞』に重大な影響を、また南越倶楽部に深刻な亀裂をもたらした。すなわち中島の選挙機関紙的役割を担った第二次『福井新聞』は、彼の敗北後、従来とってきた立場の変更を余儀なくされた。さらに、また中島の帰京によりその資金面にも問題を生じ、ここに再び『福井新報』を支えた藤井五郎兵衛ら福井市の商工グループの資金力に頼らざるをえなくなり、その編集にも大きな変化がみられた。
 そのことは明らかに南越倶楽部武生派の機関離脱を意味したのである。すなわち、すでに明治二十三年(一八九〇)七月二十三日の第二次『福井新聞』は武生派に対する揶揄的記事を載せ、それ以後しばしば南越倶楽部に対する批判攻撃を加えていくのであった。それらの態度のなかには、南越倶楽部を改造して新しい福井新聞派の機関たらしめようとする意図、福井市のグループに政治的主導権を奪回せんといった思惑が秘められていたと考えられる。七月二十四日の論説「福井県に政治思想の発起するを望むものは」において、南越倶楽部に反対するものがないのは同倶楽部が勢力が弱く無意味な存在であるからと論じ、「県下に政治思想の発起を希ふものは南越倶楽部に反対する政団の起らんことを望むなり」とも書いた。
 南越倶楽部は、ともかくも総選挙後の七月二十日に臨時総会を開き、九月の定期総会の内容や同倶楽部の維持法などについて協議した。出席は杉田以下三六人で、そのうち二五人は吉田・坂井両郡の人員で、増田、松下は出席したものの永田は欠席、倶楽部内の武生派と永田派との対立は決定的な様相を帯びつつあった。八月十三日には、坂井郡の同倶楽部幹事阿部精が杉田に書簡を送り、倶楽部の立直しのためには定期総会で役員を全廃し新組織を構築することと、増田、松下の退陣が必要であることを訴えた(杉田定一家文書)。
 さて、総選挙の前後、中央、地方における民党の動きの活発化に対し、山県内閣は二十三年七月二十五日法律第五三号「集会及政社法」を公布、九月より施行した。これは議会開設を前にして、超然主義を標榜する政府の政党に対する弾圧法であり、政党各派の連合連絡を禁じ、政党の手足を束縛するものであるとともに、また政社の自由、集会の自由を著しく制約するものであった。同法は、地方の政治団体にも強烈な震動をあたえることになり、南越倶楽部もまたその例にもれなかった。すなわち十月六日の秋季総会で、政社組織を解き社交倶楽部(非政社組織)とすることや、また正副会長(杉田、永田)を廃し、新しく三人の理事(奥田与兵衛、橋本直規、大橋松二郎)と二人の主計(坪田仁兵衛、加藤与次兵衛)を置くことにし、事務所を福井市に移すことを決めた。これまで倶楽部を主導してきた武生派すなわち増田、松下の退陣が実現したのである。また、第二次『福井新聞』は十月九日の「南越倶楽部の革命」と題する論説で秋季総会の決定に賛意をあらわした。
 南越倶楽部は、新理事らにより十一月五日、臨時総会を開催した。基本会員以上およそ三〇〇人を招集したが、出席者は三五人、しかも足羽・吉田・坂井各郡がおもで、丹南三郡は一両人が義理で出席していた。しかも福井警察署警部臨監のもと、予定議題の立憲自由党にかかわる件、上京有志にかかわる件、同宿所有志補助および運動費の件は協議もできず、ただ酒肴の間に談笑するのみの会合に終らざるをえなかった。予想されていたように、政社組織を解き私交団体に改めたことは明らかに失敗であった(杉田定一家文書)。かくて南越倶楽部の存在の意味は薄れ、その名称を残すにとどまり衰退の一途をたどることになった。



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