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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    六 国会議員の誕生とその動向
      第一回総選挙前夜
 大同倶楽部と大同協和会の二派に分裂していた大同団結の自由派は、第一回の総選挙を目睫にして、ようやく統一の動きをみせ、自由派の盟主板垣退助は、明治二十二年(一八八九)十二月に高知を出発、大阪に旧友懇親会を開き自由派の統一を試みた。しかしこの試みも結局は成功せず、彼を中心とした愛国公党の組織化に終わり、他方、大同協和会は再興自由党を結成、二十三年初頭において自由派は愛国公党、再興自由党、大同倶楽部の三派鼎立の状況のもとに総選挙を迎えることになった。
 このような政局の展開のなか、南越倶楽部は杉田の意向をふまえ、三月の臨時総会で大同倶楽部を脱し、愛国公党に加盟することを決めた。彼らは加盟の理由に、将来における自由派の統一合同への期待を強調し、またこの総会で政社組織をとることを決め、総選挙に対応することになった。そしてこれよりさき、『福井新報』の後をついで第二次『福井新聞』が十月十日に発刊されることになる。それは第一回総選挙へ向けての県内自由派の機関紙として、同倶楽部に主導権を制した武生派の連中が主力となって刊行された。同紙は、刊行直後自由派の統一合同をめぐる動向について詳細に報道し、また一月には愛国公党趣意書を連載し、しばしば社説において自由派の統一合同の必要性を強調した。さらに四月、板垣来福の時には紙面に彼の肖像を掲載、歓迎の意をあらわした。
 二十二年の選挙法では、定員三〇〇人、一人区二一四(二人区四三)の小選挙区制がとられた。本県では大野・足羽の二郡、吉田・坂井の二郡、丹生・今立・南条の丹南三郡と嶺南四郡の四区に分かれ、定員は各一人であった。このことは選挙区内の郡同士の対立競争が大きく選挙を左右し、また各郡の有権者数の大小が郡間の合従連衡を生んだ(表47)。また選挙人の資格は、二五歳以上の男子で、一年以上その府県内に本籍を定め居住し、直接国税一五円以上(地租は一年以上、所得税は三年以上)を納めていることを要件とした。当時地租一五円を納めることは、ほぼ田地一町五反歩または畑地五町五反歩を所有する年所得額一五〇円程度の地主であることを意味した。なお所得税の場合一五円の納税者は年所得額が一〇〇〇円以上なることを要し、農村または農民に有利な選挙資格要件であった。被選挙人は、三〇歳以上の男子で本籍や居住の制限はなく、選挙権と同額の財産制限があった。

表47 衆議院議員選挙有権者数(明治24年6月15日現在)

表47 衆議院議員選挙有権者数(明治24年6月15日現在)
 第一回総選挙の期日は二十三年七月一日で、県内の政治勢力はそれに向けていっせいに活動を始めた。選挙活動は、各郡または二、三の郡の協力のもと、その郡の県会議員、町村長および一部の有力者が発起人となって有志大会を開き、そこで郡における候補者を予選し、また各町村単位で有権者、区長、町村長の縦の系列組織で集票するしくみが広く行われていた。
 二十三年三月十五日には、県会議員選挙(半数改選)が総選挙の前哨戦のかたちで行われた。各郡には倶楽部、同志会と名づけられた組織が結成され、県会議員の予選会が展開され県内の選挙熱は高まっていった。
 四月に入ると第二次『福井新聞』は、「国会議員候補者予見」の連載を始め、また各選挙区の動向を伝える記事が多く見られ、さらに同紙は、再興自由党の幹部で第三選挙区の候補者中島又五郎の選挙用機関紙的性格ももつようになる。そのため同紙は、南越倶楽部の機関紙として愛国公党の候補者を支持せねばならない側面と、再興自由党の中島を推す立場との間の矛盾を避けることができず、愛国公党は自由派の統一合同を目途に結成されたものであり、総選挙において他の二派の候補者を推すことも、自由派の勝利という同じ目的のためであるといった苦しい弁明を行わねばならなかった。そしてこのことは、同区における愛国公党候補者永田定右衛門との競合のなかで種々の波紋を生じることになった。



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