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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     五 大同団結運動と南越倶楽部
      南越倶楽部の活動
 明治二十二年(一八八九)の夏には大隈外相の条約改正交渉をめぐって中止・断行両論が沸騰し、政局は激しく動揺する。七月には中止・断行両派の演説集会、新聞論議がうずまき、改進党と同党系の新聞は改正条約を弁護し断行を主張し、改進党以外の諸派(大同団結派、保守派)はおおむねこれを攻撃し、中止を主張した。かくて中止建白書は、七月下旬には元老院の卓上山をなすありさまとなった。
 結成大会を終えた南越倶楽部は、八月十五日、福井市の五岳楼に杉田定一以下の有志数十人が集合、当面の案件を議すべく臨時会を開催し、以下の四つを議決した(資10 一―二五三)。
写真53 五岳楼

写真53 五岳楼

  一、遅れている負担金の納入は、八月中に残額を取りまとめ完納すること。
  一、改正条約中止の建白書は、大同倶楽部の依頼要請もあるが、南越倶楽部としてで
     はなく、広く七郡連合として建白を行う。起草委員は杉田・松下、提出期限は八月
     三十日とすること。
  一、八月二十三日より三日間長野で開会される東北十五州会へ黒田道珍、河野彦三
     郎を派遣すること。
  一、帰福した後黒田・河野を各郡への演説者として派遣すること。
 このなかで改正条約中止建白の件については、南越倶楽部は結成大会を終えたばかりで強力な運動展開には準備不足といった一面を否定できず、また県内諸勢力への配慮に加え、さしあたっての勢力拡張の意図もあり、倶楽部自体の運動とは別に七郡有志に働きかけ、調印を求めるという方策をとったのである。それでも七郡での署名調印は予定どおりには進まなかった。そして杉田もまた、十五日の臨時会に出席したものの、中旬より体調の悪化をきたし入院、九月の半ばまで一進一退の状態が続いていた。南越倶楽部の出京委員でもあり、中央政局の動きのなかで彼の上京は各方面より要請されており、彼自身もまた出京の意志をもっていたが、思うにまかせない状態が続いていた。
 このような状況のもと、結局は十月に入り、杉田の体調がやや小康をみた段階で、二日に評議員会がもたれ臨時総会の開催が決められた。同月十日福井市で開かれた同会は、杉田以下六〇人(基本会員以上)が出席し、改正条約中止建白書の提出が最終決定され、永田定右衛門、山田穣が捧呈委員総代となり県庁へ出頭、建白書を元老院へ差し出す手続がなされた。なお、この建白書の署名者は、足羽郡一二人、吉田郡六人、坂井郡三〇人、大野郡七人、丹生郡四六人、今立郡一七人、南条郡二九人の計一四七人であり、南越倶楽部員以外からの署名調印はえられなかったようである(資10 一―二五八、二五九)。
 このように、南越倶楽部はともかくも改正条約中止の建白書の捧呈を終えたのであるが、その勢力拡張は必ずしも所期のとおりには進まなかった。しかし、近づきつつある総選挙を目前にして、また流動しつつある政局の展開のなかに、徐々にではあるがその前進を期しうるところがあったのであり、この情勢をふまえて、杉田は十月九日に開会された臨時県会の初日に出席したのみで、同月十三日、転地療養の名目で上京することになり、新しい局面に対する活動を始めることになったのである。
 他方、山本鏘二は『福井新報』を舞台に県下の政治状況を可能なかぎり改進党寄りに傾ける努力を続けてきた。大隈の外相就任後は一段と改進党の立場を強化し、改正条約断行の論調を鮮明にした。しかしこの姿勢は県内多数の支持を得ることができず、全県的広がりをみせる南越倶楽部の改正条約中止の運動に抗することはできなかった。杉田を中心とする旧自由党系勢力の、嶺北におけるいちおうの結集組織としての南越倶楽部の成立は、『福井新報』を舞台に県内の改進党勢力の培養を意図した山本の期待をくじくものであった。また、新聞の経営も必ずしも順調ではなく、大隈の条約改正事業の挫折と時を同じくして同紙も終幕を迎え、山本はその半年後福井を去ることになる。かくて県下の政局は一路二十三年の第一回総選挙へ向けて歩を進めることになったのである。



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