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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     五 大同団結運動と南越倶楽部
      南越倶楽部の結成
 憲法発布後、後藤の入閣そしてまた大赦による大同団結派の幹部の政界復帰により、大同団結運動は新しい局面を迎えた。この情勢のなか、帰福後の杉田は再び新局面に対応するため県下の政治組織結成に意欲を燃やすが、体の不調から思うように動けず、具体的行動は武生の増田耕二郎に託さざるをえなかった。増田のあっせんにより 明治二十二年(一八八九)三月二十七日、武生の鎌仁楼で(南越倶楽部)発起相談の集会がもたれた。足羽・吉田・丹生・今立・南条の五郡から二一人が出席したが、そのほとんどは、旧自由党直接加盟者または南越自由党加盟者であり、その他は二十年代における杉田の新ブレーンであった。この集会は、後藤の戦線離脱後の大同団結運動の再構築への、また来る第一回総選挙への対応のために、かつての若越親睦会の挫折をふまえたうえでの全県的な組織の構築をめざしたものであった(資10 一―二四九)。
 そして、かねて準備されていた彼らの機関雑誌『暁』(月刊)が、主筆松下豊吉、発刊兼印刷人宇野猪子部、編集人池上次郎四郎により二十二年四月十日に創刊された。『福井県警察統計表』によれば、発行部数は二十二年三九六八部、二十三年一九四〇部とある。第一回総選挙へ向けての県内自由派の機関紙として、十月十日に第一号を出した第二次『福井新聞』の発刊後は、その存在意味が薄れていったものと思われる。 写真52 『暁』

写真52 『暁』

 さて、二十二年四月十日の丹南三郡委員会および足羽・吉田両郡と坂井郡における杉田ブレーンによる、南越倶楽部設立への動きが活況を呈することになり、十五日には越前七郡大同団結派集会が、各郡の委員三人以上の出席のもとに福井市の五岳楼で開かれた。集会では杉田が座長となり、規約一六か条を議定し、予定どおり本会を南越倶楽部とすることなどが協議され、仮会頭に杉田、副会頭に山本喜平を推せんし、大会(各郡委員の総会)を五月二十五日に開催すること、および山形での東北十五州会と東京での大同派大会への派遣委員を決定した(資10 一―二五四)。
 東京では大同派大会を前にして、同派の主義綱領など提出議案の起草委員会で政社、非政社論の対立が生じ、関東(千葉を除く)および愛知地方の委員は大井憲太郎、内藤魯一らの主張する非政社論に、関西の多数および東北十五州の委員はほぼ政社論にくみして会議は紛糾した。ここに旧自由党系の大同団結派は、大同倶楽部(政社派)と大同協和会(非政社派)に分裂を余儀なくされた。南越倶楽部も以後大同倶楽部の地方組織として、その旗色を鮮明にし活動することになった。
 しかし、この時期杉田は病状がはかばかしくなく療養のため離福を余儀なくされ、五月二十五日の大会出席も不可能であった。そのこともあり、同日の大会は七郡委員会として開かれ、十分な成果をあげることができなかった。このような状況のなか、杉田は全快しないまま七月初めに帰県し、七月の炎暑のもと自ら先頭に立ち、南越倶楽部の勢力拡張のための遊説行を始めた(資10一―二五六)。
 なお、この七月には「南越倶楽部仮規約」(杉田定一家文書)が作成されており、そこでは義捐金五円以上の特別会員、一円以上の基本会員、一〇銭以上の普通会員の三種の会員制度が設けられ、また各郡より五人以上の委員、委員中より毎郡一人ずつの会計事務員を選ぶことが規定されていた。これは規約五月案の一部修正追加であり、各郡への遊説に対応する意味合いが含まれており、また勢力拡張の重点が、地方の名望家ないし資産家に、少なくとも来るべき総選挙における選挙権有資格者におかれていたことを物語る。遊説行は七月六日よりの丹生郡を皮切りに南条・今立の三郡より始められた。そして、七月下旬には坂井・吉田・足羽郡で行われ、炎暑のなかでの杉田の遊説巡回はそれなりの成果をあげた(資10 一―二五七)。
 この遊説巡回の成果をもとに、二十二年七月二十八日、福井市三秀園で委員大会が開催された。大会には、各郡選出委員四四人が出席し、会則などの決議と会頭・大同倶楽部常議員兼政費取調委員杉田定一、副会頭永田定右衛門、主計青山庄兵衛、坪田仁兵衛、理事松下豊吉、増田耕二郎、各郡一人ずつの評議員に南条郡中山義樹、今立郡黒田道珍、丹生郡山本喜平、坂井郡山田穣、吉田郡五十嵐千代三郎、足羽郡加藤与次兵衛の各役員の選出を行い、南越倶楽部は正式に発足した(資10 一―二五〇)。
 この南越倶楽部は、中央の大同団結に気脈を通じると同時に、杉田の中央での活動の後援会的役割とともに、第一回総選挙に対する運動基盤の形成という一面をもっていた。それは、郡委員の数を選挙区ごとに二〇人(足羽・大野郡各一〇人)(坂井郡一四人、吉田郡六人)(南条郡六人、今立・丹生郡各七人)と定めたことにもうかがわれる。また、この結成大会への出席者の多くは、この時期の県会議員の経歴者であり、そのほかの者も戸長、村長などの経歴のある有力者いわゆる豪農・名望家であって、また多かれ少なかれ種々の政治問題につき杉田につながる人びとであった。『福井新報』(明治22・8・1)も従来当県の有志者は数度集会し団結を図りしに、多少の障礙に逢ひ其実不振の嫌なきに非りしか、今回の結合たる各郡委員及ひ有志者の熱心と熱望を以て組織したるものなれば、爾来目覚しき運動をなすなる可し、如此堅固なる団体の今日に見ることを得るは、畢竟時運之れを促かしたるものと謂ふ可しと書かざるをえなかったように、新しい県下政治団体の結成とその出発を意味するものであった。



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