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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     五 大同団結運動と南越倶楽部
      後藤の東海北陸遊説
 大同団結運動の盟主後藤象二郎の東海北陸遊説が、明治二十一年(一八八八)十二月から翌年一月にかけて行われた。十二月十八日には敦賀に入り、万象閣にてさっそく有志大懇親会が開かれ、後藤および随行の綾井武夫、国友重章などの演説が行われた。翌十九日には武生に入り、陽願寺にて懇親会が開催された。陽願寺入口橘町通りに「後藤伯招待懇親会」の建札、その左右に「三郡倶楽部」と大書した高張堤灯、懇親会趣意書を掲示、大門前に花門を作り幕を張り、左右に「吾人口舌以換兵刃」「大同団結自由万歳」と書いた紅白の旗を立て、門内に数百の紅灯をともしたと報道されたように意気盛んな準備がなされ、懇親会も「集まる者無慮二百」といわれ盛会であった。
 そして翌二十日午後には福井市に到着、西別院にて福井有志者の招請大懇親会が催された。この懇親会の開催に関しては、十四日に前述の福井有志懇親会の臨時会がもたれ、同会ではなく福井の一般有志の首唱で開くことを決め、『福井新報』にも広告が出された。このように後藤一行への応接において、武生の旧自由党員らのものとはやや異なる一面がみられた。ともかくも同夜は宿舎三秀園に有志者と一行との会合がもたれ、翌二十一日には照手座で政談大演説会が挙行される。
 このように後藤一行の福井県への遊説は、大同団結運動への関心を高揚させることにいちおうの成果をおさめたが、武生を中心とした旧自由党系の人びとと、『福井新報』による福井の旧士族層および商工層グループの改進党寄りの人びととの間における、同運動に対する違和感も漸次増幅されていたのである。 写真51 後藤象二郎の来県

写真51 後藤象二郎の来県
 一方、後藤一行の遊説に前後して、前述のように県会への関心の高まる状況下、十一月二十四日開会の通常県会は大波瀾を迎えることになる。それは役員人事のしこりや県会内部の指導権争いと、郡部間の地域的対抗意識などにより、かねがね醸成されていた常置委員派と他の県議派(反常置委員派)のあつれきが、土木費追加三万余円をめぐって爆発したのであった。この対立は、勅令である師範学校令にもとづく師範学校経費の全廃決議を可決する(表45)という事態にまでエスカレートし、十二月二十二日に県会はついに解散されたのである。
 こうして翌二十二年一月には、県会議員選挙が激しく戦われ、新しい県会議員の誕生をみた(表45)。坂井郡では再び杉田が当選し、二月の臨時県会では、議長に杉田が、副議長に永田定右衛門が選ばれた。そして二月十一日の憲法発布の式典に、杉田は県会議長の資格で上京、参列した。彼は以後しばらく在京し、中央での政治活動に加わり、三月九日帰福した。



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