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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     五 大同団結運動と南越倶楽部
      杉田の帰朝と県下の政治状況
 杉田定一は、自由党解党のほぼ一か月前、すなわち明治十七年(一八八四)九月から一年にわたり清国を、引き続き十九年七月から約二か年欧米を遊歴している。彼にとってこの三年間の海外遊歴は、新たな局面に対する暫時の休養と充電のための期間であった。そのことは二十年にロンドンの客舎で書き記した「国是策」がよく物語っており、以後の杉田の政治的立場を表明したものであった(『杉田鶉山翁』)。
 国会開設を四年後にひかえた十九年秋には、しばらく低迷を続けていた民間の政治活動もようやく動き始めた。十月には、旧自由党幹部星亨の首唱で東京において有志二百数十人による全国有志大懇親会が開催され、民間勢力の大同団結が説かれた。この動きは、二十年夏の井上外相の条約改正交渉反対に端を発する三大事件(外交策の挽回、地租軽減、言論集会の自由)建白運動へと展開していった。また、後藤象二郎は、この機をとらえて旧自由・改進両党員へ大同団結を呼びかけ、ここに大同団結運動が展開することになった。同年十一月の有志大懇親会には全国の建白委員三四〇人が出席、後藤、星の政府攻撃の演説が行われた(福井の出席者は増田耕二郎、湯浅徳太郎)。この三大事件建白運動と大同団結運動の波は、政府を飲み込まんとする勢を呈するにいたるが、伊藤内閣は十二月二十五日保安条例を公布、即日施行して、いったんは運動の暴発を防禦し二十一年を迎えることになった。
 福井県においても二十年十月、大同団結運動のオルグとして土佐の橋本直規が来福、代言事務所を開くとともに、湯浅の発起で第三回南越親睦会が大同団結運動に呼応する集会として開催された。また、経済界が好況に転じたことを背景に、経営不振からの脱却のため、福井新聞社の経営に福井の商工層グループが参加した。藤井五郎兵衛(酒造業)が社主となり、同年十二月には紙名も『福井新報』と改題された。このことは旧改進党系につながる福井の旧士族層勢力と旧自由党系に左袒する福井の商工層グループとのいちおうの連合を意味し、中央の大同団結運動に呼応するものであったといえる。
 さらに数年間無風状態であった県会議員選挙も全国の動勢に促されて、ようやく活気を呈し始め、二十年暮れには半数改選が行われた。そして改選後の県会議員たち(表45)の唱導のもと、二十一年初頭より郡有志懇親会などの名で政治集会が郡単位でひんぱんに開かれた。

表45 県会議員名列(明治20−22年)

表45 県会議員名列(明治20−22年)
 このような情勢のなかに杉田は、二十一年六月に帰朝し、福井に戻った。さらに彼の帰福と時を同じくして、大同団結運動のオルグとして東雲新聞記者栗原亮一と北陸新聞記者二人による北陸巡回遊説行が、武生での集会を皮切りに行われ、杉田もこれに参加した。この遊説行は福井から石川、富山へと続けられたが、福井でこれを支えたのは、すでに大同団結運動への加担活動を始めていた松下豊吉ならびにさきに来福した橋本直規、および武生の商工層グループであった。その後も杉田の活動は、栗原とともに福井、鯖江、南条郡において続けられ、地元坂井郡での活動も漸次加熱していったのである。
 中央での大同団結運動は、二十一年二月大隈の外相就任前後には改進党系勢力が後退し、主として旧自由党勢力によって進められた。後藤象二郎は、六月機関雑誌『政論』を発刊し、さらに七月から九月にかけて地方への遊説を精力的に行った。また十月には植木枝盛、中江兆民などが中心となり、関西での有志大懇親会が準備されるなど、後藤とその一派による大同団結運動は再び活況を呈することになった。
 このような全国の動向は、当然福井へも波及することになり、全国的な大同団結運動に連動すべく、杉田を中心とする若越全体の運動組織の結成が試みられた。それは杉田や橋本をはじめとして、永田定右衛門、竹尾茂などの県会議員や福井旧士族の実業派を代表する東郷竜雄、笹倉練平の両名を発起人とする有志懇親会の開催であった。しかし、この計画も「若越親睦会」という名称と仮規約の承認や幹事や郡委員(表46)の選出が行われたのみで、具体的運動はなされず、南越における政治勢力の一体化になお若干の時間が必要であった。しかし、ともかくも十月十四日、大阪における全国有志大懇親会には永田定右衛門、青山庄兵衛、時岡又左衛門、加藤与次兵衛の県会議員と武生の宇野猪子部、福井の大家理兵衛、松浦外字の七人が出席した。

表46 若越親睦会委員・幹事

表46 若越親睦会委員・幹事
 他方、以上のような動きに前後し、市制施行を前に福井の旧士族層と商工層グループは若干の対立をはらみつつも福井新報社を軸に新しい政治勢力の結集をめざし動き始めていた。そこにはかねがね中央政治の動きに連動しようとする杉田一派への対抗意識が存していたものと考えられる。
 七月七日、第九十二国立銀行の発起により商工会議所、竟成社などの有志および福井新報社員およそ三〇人が、市制の件について協議会を開催、以後会を重ねるなかで市制実地施行委員に狛元、林藤五郎、松原秀成、東郷、笹倉が選任された。そしてこの集りが福井有志集談会に発展し、懇親会、親睦会などの名で会合を続け、市制実施後の対策や県会傍聴などによる地方政治への関心の高揚を意図したのである。
 こうした動きは郡部にも波及する。すなわち全県一致の運動組織が不発に終わったことと並行して、郡単位の有志懇親会が結成され、それぞれの郡選出県会議員に対する監視と後援とを兼ねて、県会傍聴委員が選出された。これらはいずれも国会開設を目睫に、全国的全県的な大同団結を否定したものではないが、それよりもまず地方の小結合の必要なことを重視し、郡ごとの団結のための組織として県会議員などの名望家を中心に作られた。こうした福井市および各郡の動向のなか、福井新報社の呼びかけで福井県会傍聴人懇親会が十一月末に結成された。十二月上旬の第二回集会で同会は若越同志会と称することとなり、委員として藤井五郎兵衛、上野善兵衛、林小次郎、村野文次郎、溝江八郎、宗義諦の六人が選出された。
 以上のように二十一年の夏から冬にかけては、県下における大同団結運動への対応は、全国的な動向に主眼を置き運動を進めるという杉田を中心にした「若越親睦会路線」と、新しい地方制度の実施を前にして、県内の地域的な政治勢力の結集強化をはかろうとする、『福井新報』を舞台にした「若越同志会路線」との微妙な対立があったのであり、県内の諸政治勢力もその帰趨をこの間に動揺せしめていた。こうした県内の情勢のなか、杉田は離福し中央での政治活動を再開、離福中の県下政局への対策と連絡を武生の増田耕二郎に託したのであった。



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