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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     四 郡制、府県制の施行
      県会と県参事会
 福井県では明治二十四年(一八九一)八月一日に府県制が施行された。この府県制により府県ははじめて法人と規定された。また府県会の職務権限も従前は「地方税規則」で列挙制限された予算および地方税の徴収方法の決議に限定されていたのが、府県会は県民を代表し広く府県に関するいっさいの事件を決議するとされた。さらに府県会規則で単なる諮問機関とされていた常置委員会が廃止され、新しく参事会が設置された。府県知事・高等官二人・名誉職参事会員として府県会で互選された県会議員四人(府会議員八人)で構成された参事会は、議決権・意見陳述権・行政監査権などをもち議決機関であるだけでなく執行機関としても位置づけられた。このことは限られたものであっても府県行政への住民参加を許容するものであった。
 このほか府県制施行のもう一つの特色として、府県会議員の選出方法が間接選挙(複選制)となったことである。市では市長と市会と市参事会が会同し市長を会長として、郡では郡会と郡参事会が会同し郡長を会長として選挙を行う。ただし、会長は投票に加わらず、投票は列記無記名で行うというものであった。また、県会議員の被選挙権資格は、県内市町村の公民中選挙権を有し、一年以来直接国税一〇円以上納める者にあたえられ、衆議院議員を兼ねることはできないが、町村会議員、郡・市会議員、貴族院議員との兼務は認められた。議員定数は、二十四年六月の勅令第五九号で決められ、福井県のような人口七〇万人以下の県は三〇人とされ、一市一一郡に表42のように割り当てられた。

表42 府県制施行による郡市別県会議員定数

表42 府県制施行による郡市別県会議員定数
 このように府県制では郡制の施行とあいまって、郡や県行政への住民参加が参事会を通じて許容されるとともに、複選制により福井県においては県会議員には町村長や郡会議員を兼ねるものが多数選出され、県会には各地域の町村会や郡市会の意向がより強く反映されることになった。このことは国家と人民の間に府県・郡(市)・町村の自治体を設置し、これに制限選挙・複選制により選出された地域有力者を参加させ、官僚的統合と密接に結合させる支配様式が形成されたのであり、明治憲法体制の基底を支える地方自治体制が構築されたことを意味した。
 こうした体制が構築されると、資格任用制度が導入されたこともあり、知事は個性的手腕によって地方を統合する存在ではなくなり、専門的行政官僚の性格が強くなった。すなわち二十年代に入ると人格的支配から機構支配へと地方官制も整備され、福井県においても八年間知事であった石黒のあとは、表43のように比較的短期間に知事の交替がなされることとなった。

表43 明治前期の福井県知事

表43 明治前期の福井県知事
 また、この時期の県会の動向を建議の内容よりみてみると、十五年の郡長公選、二十年の戸長公選や二十一年の藤田遠敷郡長の解任建議のような地方自治制度や政治をめぐるものはなくなり、かわって社会資本の整備を求める建議が中心となる(表44)。なかでも、毎年建議される土木費支出規則の改正は、県下の多くの地方道を県費支弁道路に編入することを求めたものであり、県会議員の選出母体である各郡市の利害が鋭く反映することになる。県会はその利益誘導の駆引きの場となり、その結果県費全額支弁の道路数(一条道路)は、二十二年三月の一二道路(県令第四五号)が、二十七年三月には三七道路(県令第一〇号)と三倍増になった。また、社会資本の整備を求める表44の建議は日清戦争以後にその多くが実現されることになる。

表44 県会における主要建議(明治24〜26年)

表44 県会における主要建議(明治24〜26年)



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