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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     四 郡制、府県制の施行
      郡会と郡参事会
 明治二十四年(一八九一)の郡制施行により、郡にも郡会と郡参事会がおかれ、地方公共団体の性格が付与された。郡会は、町村会において選出された議員と大地主の互選による議員(前者の三分の一以下)により構成され、議長は郡長であった。議員の任期は前者が六年で三年ごとに半数改選、後者は任期三年であった。大地主とは、郡内で町村税の賦課をうける所有地の地価総計が一万円を超える者とされた。表40からも明らかなように大地主の少ない福井県では、若狭三郡には大地主より選出の郡会議員はおらず、また越前八郡においても大地主有権者四二人が三五人の郡会議員を選出しており、地価一万円以上の大地主の八割強が郡会議員であった。また、郡会議員には坂井郡雄島村の大針徳兵衛や今立郡上池田村の岡研磨や遠敷郡鳥羽村の沢本常治郎のように、村長と県会議員を兼ねるものが多かった。このように郡会は、県会や町村会以上に地方有力者(地主)中心となっており、また、郡長が議長であることや議員に兼職者が多く、独自の「自治」的施策が議論される可能性はきわめて少なかったといえよう。

表40 郡会議員(明治26年)

表40 郡会議員(明治26年)
 一方、郡参事会は郡会議員互選による三人と知事選任の一人、それに議長をつとめる郡長の五人で構成された。同会は、郡会提出議案の事前審査、郡会委任事項や臨時急施事項の議決のほか町村監督事務への参与など広範な権限を有していた。また郡長は、郡会議長a議案発議者および郡参事会議長として、郡会と郡参事会を主宰し、それらの議決を執行する立場にあり、その権限は強大であった。 表41によれば、県下一一郡総計の財政規模は大正末年の郡役所廃止まで福井市一市とほぼ雁行しており、県や町村と比べればはるかに小規模である。このことは、県や町村と異なり郡が独自に主体となって行う事業が少なく、また郡の最大の任務が町村の監督であったためである。しかし、日清戦争以後、中等学校の普及や鉄道a電気事業の誘致などが盛んになると、町村を越えた地域の利害調整に郡長(郡会)の果たした機能はけっして小さいものではなかった。

表41 郡と県市町村の歳出(明治24〜大正11年度)

表41 郡と県市町村の歳出(明治24〜大正11年度)



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