市制、町村制と郡制、府県制は、明治憲法体制下の地方自治制度における不離一体のものであるはずであったが、後者は元老院での審議が難航した末、明治二十三年(一八九〇)五月に公布された。全国的には、府県制の前提である郡制が、郡の分合問題などから施行できず、二十四年中に郡制、府県制の施行をみたのは福井県を含めわずか九県であった。東京・大阪・京都・神奈川・岡山・広島・香川の三府四県は、府県制が全面改正された三十二年までついに施行できなかった。
福井県では、郡制が二十四年四月一日から、府県制が同年八月一日から施行された(告示第四四、一一二号)。このように、全国的にみてももっとも早く郡制が施行できたのは、郡の分合が行われなかったからである。
郡制、府県制が公布されると、福井県でも七月に郡制事務取調委員長に李家裕二書記官が、同委員に五人の県官が任命され、郡制施行のための作業にとりかかった(『官報』第二一〇九号)。これに対して、地方民も郡分合や郡役所の所在位置についての世論を形成し、それぞれの立場からの建言や請願が活発になされた。この動きは、大野、勝山という二つの中心部をもつ大野郡と郡役所が一つであった足羽、吉田郡および南条、今立郡において盛んであった。
南条、今立両郡においては、両郡に丹生郡の一部を加えた一郡、南条郡と北陸街道沿いの今立郡の村むらとで一郡、今立郡のみで独立一郡を望むものと大きく三派に分かれて請願運動などを行った。また、足羽、吉田郡でも独立派と合併派が建議をくり返した。
大野郡では、十一年の郡区町村編制法の施行時にも、勝山を中心とする郡北部の独立の動きや郡役所の位置をめぐり請願があったが、石川県では同年十二月、告三六番で人民の請願に任せる筋合のものではないと布達している。郡制問題が新聞紙上に掲載され始めると、再び分郡の動きが起こり、郡制公布前の二十二年三月には早くも郡北部の各町村の総代や戸長が、県知事あてに北部の独立を望む理由を詳しく説いた「情願書」を提出した(資10 一―二六六)。 |