目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     四 郡制、府県制の施行
      郡長の機能
 郡区町村編制法では、県内に本籍のある地方名望家を官選により郡長に任命し、官側へ取り込もうとするところにねらいがあった。福井県においては初期の郡長は、嶺北七郡のうち坂井、大野、南条・今立郡では旧大野・丸岡藩や本多家の士族が、足羽・吉田や丹生郡では旧福井藩士族が、また、嶺南四郡では旧小浜藩士族が任命されている。彼らの多くは旧藩時代に民政にたずさわった経歴が尊重されての任命であったと思われる。もう一つの特色は、彼らが比較的長期にわたり郡長をつとめていることである。これらのことからも、明治十年代の郡長に求められていた最大の任務は、町村の監督であり、官の支配による地域の安定にあったといえる。自由民権運動に共感を示し、嶺南四郡の復県運動の指導者であった藤田孫平の三方郡長への任命も、地域の政治的安定への一つの方策であった。
 明治二十年(一八八七)には、郡長の採用が従来の「情実任用」から「試験任用」へと変わった。試験内容は、就職する地方についての知識、郡長職務に必要な法令、公文の立案などであった。郡長には、従来の町村の監督能力だけではなく、国や県の方針や施策を郡内で積極的に運用する専門的行政実務能力が求められたのである。その結果、二十年代の郡長には他府県出身者が多くなり、県内出身の郡長でもほとんどが県吏員からの任命となり、郡長と地域とは直接的な関係を断絶されることになる。



目次へ  前ページへ  次ページへ