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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     四 郡制、府県制の施行
      郡の設置と郡長公選要求
 明治十一年(一八七八)の郡区町村編制法では、大区小区制で一度否定された郡が再び行政区画として復活した。このとき同時に置かれた町村や府県は、国の行政区画であるとともに、地方公共団体の性質を合わせてもつものであったが、郡は、郡会もなく単に行政区画の性質しかもたなかった。
 嶺北七郡が属していた石川県では、十一年十二月に、嶺南四郡が属していた滋賀県では翌十二年五月に郡が置かれた(表39)。嶺北七郡では、足羽、吉田郡と南条、今立郡にはそれぞれ一郡役所しかおかれず、また所轄内の戸数人口も大きく、そのため、郡役所の書記の数も嶺南四郡と比べると多かった。また、書記の九割以上は地元の士族であり、この傾向は比率は下がるものの大正末の郡役所廃止まで続いた。
表39 郡別戸数・人口

表39 郡別戸数・人口
 郡長は、府知事県令からの法律命令を郡内に施行し、一郡の事務を総理するとされ、町村戸長の「監督」を最大の任務とした。また、「該府県本籍ノ人ニ任ス」とされ、地方名望家が起用された。郡長・書記の給料など郡役所経費は、郡会がないにもかかわらず、地方税からの支弁であった。この義務のみで権利のない郡の制度は、自由民権思想の高揚しているなか「人民」には支持されず、全国各地で郡長公選論が湧き起こった。福井県でも、十五年の通常県会では「郡長公撰之建議」が可決されている。その論理は、金を出して物を買ったり人を雇ったりする場合、物の善し悪しや雇人の能力をみて選択することができる。すなわち、義務のあるところ権利もあるのが「人世普通ノ公道」である。しかし、今の郡の制度では地方費支出の義務のみあり権利がない。とくに、郡長には二重の性格があり、「政令ヲ施ストキハ官吏」であるが、郡内の事情を上達するときは「人民ノ総代」であるべきである。このことを実現するためにも郡長の公選が必要であるという建
議案であった。越前地租改正問題をめぐる官(郡役所)と民の激しい対立の経験をふまえた建議であったといえる(矢尾八兵衛家文書)。
 しかし、これらの郡長公選要求などに対して政府は拒否の姿勢を貫くが、十六年には、郡長の給料旅費を国庫支弁にするとともに、身分も判任官から奏任官へ昇任させた。翌十七年の改正による戸長官選とともに地方末端行政機構への中央政府による支配・統制がいっそう強化されたのである。
写真49 「郡長公撰之建議」

写真49 「郡長公撰之建議」



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