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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      福井市の成立
 明治二十一年(一八八八)四月一日、市制が公布されると、七月より第九十二国立銀行が発起し、実業界を中心とした有志の集会がもたれた。同集会は、市制実施施行委員を選び、市長や参事会員の候補者を協議するとともに、十一月には市会議員候補者の予選会を行い一一〇人の当選者を発表するなど市制実現をめざす動きを活発に行っていた(『福井新報』明21・7・10、8・21、12・2)。
 内務省は、翌二十二年二月二日告示第一号で福井をはじめとして全国三六か所を市制施行地に指定した。これをうけて県は、同月二十日月見町外八五か町および石場畑方を市制区域とし、四月一日よりの市制実施を布達した。全国で二十二年中に市制を施行したのは三九市であった。
 四月一日より福井市制が施行されると、同月二十日から三日間、市会議員選挙が三級の等級選挙で行われた(表38)。選出された三〇人の市会議員の多くは、前述の二十一年十一月の私選の予選会の当選者であった。議員の任期は六年で、三年ごとに半数改選が行われた。五月一日に第一回の市会が、足羽吉田郡役所で開かれ、議長に永田重、議長代理者に片山平三郎が選ばれ、市長候補に鈴木準道(最高得票)、佐々木千尋、山田卓介の三人が選ばれた。同月二十七日、松平家の家扶であった鈴木準道の市長就任(年俸六〇〇円)が認可され、翌月十二日着任した。そして助役には前足羽吉田郡書記の牧野四郎(年俸三六〇円)が、収入役には大区長、県吏員、連合戸長を歴任してきた杉山敬介(月俸一五円)が選任された(『官報』第一八二五号)。なお、鈴木をはじめ明治・大正期の五人の市長は、すべて旧福井藩士であった。
 七月には、「市役所処務規程」が制定され、庶務・戸籍・兵事・学務・衛生・勧業・地理土木・国税・地方税・市税・用度の一一掛がおかれ、八月には元桜小学校を庁舎として事務が開始された。
表38 福井市会議員選挙有権者数

表38 福井市会議員選挙有権者数
注) 『福井新聞』明治22年4月13日による。

 福井市においては、二十二年八月に市内を三〇区に分け、区長と区長代理が選挙によって選ばれた。市制施行当初の二十二年から無給の区長を置いたのは、福井市を含め全国で六市のみであった(『内務省第五回統計報告』)。
 翌二十三年には福井市でも米価高騰による貧民救済の道路工事が行われるが、この時のさまざまな末端事務や工事に従事する貧民の監督は、区長が中心となって行った。また、市内八つの小学校(旭・進放・宝永・春山・花月・順化・足羽・豊)下ごとに学区会を設け、選挙で選ばれた学区会議員(九〜一五人)が小学校の予算や管理事項を審議した(明治四十四年廃止)。



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