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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      町村行政の運営と区
 町村制の施行により成立した町村には、国・県・郡による三重の監督体制があり、「自治」への規制が強くはたらいていた。とくに郡は、県の決めた「町村役場処務規程準則」や「町村巡視規定」にしたがって事細かに町村行政を監督指導した。また、前述の遠敷郡熊川村のように村会や村行政がうまく機能しない場合は、郡書記が村役場へ村長職務代行者として乗り込み、直接村政を担当することもあった。
 町村制施行を前にして県は明治二十二年(一八八九)三月九日、旧来の町村を新市町村の大字とした(県告示第二九号)。さらに町村制が施行されると、県下の大半の町村は同第六四条「町村ノ区域広濶ナルトキ又ハ人口稠密ナルトキハ、処務便宜ノ為メ、町村会ノ議決ニ依リ、之ヲ区ニ分チ、毎区区長及其代理者各一名ヲ置ク事ヲ得」を根拠に、所轄大字に従来の町村総代に代わるものとして、二十二年末までに一二八〇人の区長と七五一人の区長代理が置かれた(『官報』第二〇六三号)。こうして旧町村は地方末端行政区画のなかで区となり、区長は町村長の行政事務の補助執行者と位置づけられた。
 区および区長の設置は、国政委任事務などが大字まで徹底されるためには不可欠なものであったが、一面では区と区長を置くことは「隣保団結ノ旧慣」を尊重した町村合併の合意成立の前提でもあったのである。そのため、町村会議員は区の代表のかたちで選出され、町村会での町長・助役の選出は各区の利害対立でしばしば紛糾した。
 こうして新しく成立した新町村は、上からは国・県・郡のきびしい監督をうけるとともに、他方、町村を構成する各区(大字)からは、明治後期にあらためて問題視される「部落割拠主義」の圧力をうけ、町村行政が「自治的」運営をめざすことははなはだ困難であった。
 そしてこのような町村行政の課題は、施行前より大蔵省などから指摘されていた財政面に強くあらわれた。実際に予算編成が行われると、福井県においても二十三年度町村費は役場吏員の報酬や給料などがかさみ、対前年度比約二割五分の大幅増加にならざるをえなかった。そして、この財源を捻出するための戸数割賦課方法をめぐって施行間もない町村会は紛糾した。たとえば敦賀町の場合、町民有志による集会が開かれ町会が決議した戸数割賦課方法の見直しを要求した。この要求を町長は認めたが、町会はこれに激しく反対し、十月には町長が病気を理由に退職している(『福井新聞』明22・8・22、9・1、10、12・1)。
 この敦賀町の事例にみられるように、予算編成の前提となる町村税の賦課が思うに任せない町村会は、町村吏員や教員の給料削減に活路を求めようとする。しかし、監督機関である郡や県は、学校教員の給料削減には、なかなか認可をあたえようとしなかった。このように、学校や役場の運営と維持だけが目的であったといえる施行まもない町村制は、その予算編成をめぐってすら紛擾がたえなかった。日露戦争後、国策である地方改良運動が、地方民をも巻き込む運動になる淵原の一つがここにあった。



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