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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      戸長役場の機能と連合町村会
 明治十七年(一八八四)の改正により新しく任命された戸長は、郡役所に招集され職務の伝達講習がなされた。遠敷郡では、十七年九月十二日に戸長招集がなされ、森川秀雄郡長が戸長職務の概要を演説した後、儀峨秀霊郡書記が徴兵事務に関する指示を行い、続いて小畑岩次郎郡書記から「国税金上納期限延引相成ラザル様注意シ、今般ハ総テ小前ヨリ徴収難相成廉ヲ以延納相成ラス候事」と国税滞納をきびしく禁じた指示があった。このほか、土木工事の施工方法や勧業や衛生に関する指示もあったが、この新戸長招集時に強調されているのは徴兵と徴税事務の円滑化であった(岡本卯兵衛家文書)。
 一方、戸長は、戸長役場の組織作りにもとりかかった。丹生郡梅浦村外四か村(越前町)戸長岡田彦三郎は、八月二十七日に郡役所に招集された翌日、郡書記と役場位置について協議し、二十九日には帰村して円満寺を戸長役場としている。この役場については、二十六日に県から「戸長役場ハ自今私宅ヲ兼用スル義不相成候条、必ス役場タルヘキ体面ヲ備ヘタル場所ニ設置スヘシ」(県「号外」)と通達され、戸長役場の公共性が強調されるとともに権威づけが行われている。また同日、用掛二人を任命しているが、彼らの月給も旧戸長なみとなっており、戸長に準じる地域の有力者が多かった。このように県下の多くの戸長役場は、戸長一人、用掛が二、三人で、ほかに小使いや筆生も雇っていた。
 この十七年の改正は、二十二年の町村合併とは異なり、あくまで戸長役場を核とする町村の連合であった。そのため戸長役場費、会議費、衛生費、勧業費などの予算を議決する連合町村会とともに各町村ごとに町村会が開かれ、そのほか所轄区域の異なる場合の学区会や水利土功会が開催されることもあった。また、「町村会規則」で予算の費目や町村費の徴収方法などにもきびしい枠組みがはめられた(甲第六五、七九号)。
 梅浦村外四か村のように各村が、土木費、衛生費、勧業費など少額ではあるが独自の予算を組むこともあったが、この改正により県下の町村会はおもに連合町村費の賦課方法を決議するだけのものになり、連合町村会の下部機関化していった。このような体制は、町村会議員や町村内の有力者にとっては受入れ難いものであり、十七年九月の梅浦村会は議員のボイコットにより三日間にわたり流会になっている。このように十七年の改正は「人民」の支持を得にくいうえに、官選戸長は所轄区域の地域的多様性により連合町村会・町村会・学区会・水利土功会の設置など複雑な対応をしなければならず、国・県・郡と「人民」の接点に位置し、難しい立場におかれていた。そのため梅浦村外四か村の岡田彦三郎戸長は、しばしば郡長に辞意を伝えている(岡田彦三郎家文書)。
 また、戸長役場には徴兵、徴税、土地台帳の作成、諸統計資料の提出などの膨大な国政委任事務のほか、地方道改修などへの寄付、共進会への出品や蚕種・桑葉のあっせんなど多くの業務があった。これらが拡大された戸長役場所轄区域において徹底されるためには、県会で「大概ノ事務ハ総代辺ニテ取リ捌クコトニナレハ」と須田議員が述べているように、町村におかれた総代の働きに待つところが大きかった。
 遠敷郡安賀里村外六か村(上中町)では、平均月一回の総代集会が戸長の招集により開催され、戸長は多くの国政委任事務を総代に指示し、また戸長役場所轄区域内の独自の課題も協議されている(岡本卯兵衛家文書)。戸長は、ともすれば抵抗の姿勢をみせるこの総代の機能を有効に使うことにより、はじめて職務の遂行が可能だったのである。県でも、総代の機能に注目せざるをえず、二十年三月には「町村内組合及総代組頭設置概則」および「総代及組頭心得」(県庶丙第七四号)を出している。これにより町村内の総代とその下部組織である組と組頭の設置基準や職務および指揮系統などが明確にされている。町村制施行時の区および区長組織につながるものとして注目されよう。 写真44 「各総代談話要領」

写真44 「各総代談話要領」



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