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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
     三 市制、町村制の施行
      明治十七年の改正
 明治政府は、自由民権運動が激化し、また松方デフレが深刻化した明治十七年(一八八四)五月、上意下達(国政委任事務の遂行)の徹底をはかるため三新法体制に改正を加え、戸長役場管轄区域の拡大、戸長の官選、区町村会法の改正などの諸達を発した。
 これをうけて福井県でも十七年の改正が行われ、同年八月二十五日に戸長役場所轄区域の改正(甲第六三号)、戸長選挙規則の廃止(甲第六四号)、翌二十六日には町村会規則(甲第六五号)などが次々と布達された。全国的には三新法体制下でも数町村を所轄する戸長役場の連合化がかなり進展していたが、福井県では十六年十二月末の町村数一九九二の約七割にあたる一四七三の戸長役場が二一八に統合された。郡と町村の間にもう一つの中間組織(連合戸長役場)を置き上意下達の徹底をはかったといえるこの改正では、新しく設置された一戸長役場あたりの所轄町村数は九・一となった。これは二十二年の市制、町村制施行時の一一・二とほぼ同じ規模であり、二十二年の町村合併の先駆となった(『帝国統計年鑑』)。
 また、官選戸長は月給もほぼ郡役所の書記なみとなり、「成可ク永ク其町村ニ居住シ名望資産ヲ有スル者ニ就テ選任スヘシ」という政府の方針のもと、福井県でも多くは戸長役場所轄区域の名望家が選任された(「戸長官選ニ付訓示心得」)。そのなかには九人の県会議員と五人の同補欠員が含まれており、官側への名望家層の取込みは周到であった。
 このような「官」による地方の統制強化をはかった十七年の改正には、当然のことながら地域「人民」からの抵抗があった。この世論を背景に十八年三月の通常県会には、山本喜平議員が「下民ノ心情ヲ鎮メ」るためとして、戸長公選と管轄区域の拡大修正の建議を提出した。これをうけて須田安崇議員は「戸長」と「人民」とは密接な関係があり「大ニ親和順寧」を必要とするにもかかわらず、「配下人民ノ誰一人見知リ聞識ルモ無キ人」が赴任してくるので、「双方ノ間柄」が険悪になっているとして賛成意見を述べ、この建議は出席議員二九人中二一人の賛成で可決された。もう一つの管轄区域拡大修正の建議も、用水や学区が分断されており、速やかな修正が不可欠であるとして二六人の賛成で可決された(明治一八年『福井県第五回通常会議事録』)。
 しかし、この建議は、県の理事者には無視されたようで、表34によれば、十七年には一三パーセントであった士族戸長が、二十年には全体の三分の一を占めるにいたっている。この士族戸長の大半は、郡書記(一部県吏員)からの転任であり、官選戸長は中央政府の地方末端吏員という性格をいっそう強めていった(『福井県職員録』)。
表34 戸長族籍(明治17〜21年)

表34 戸長族籍(明治17〜21年)



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