目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      県会の解散と石黒知事の非職
 明治二十一年(一八八八)十一月の通常県会は、知事と常置委員に対する積年の不満が一挙に爆発した。直接の契機は、同年八月の水害復旧のための臨時土木費三万五五八二円が、臨時県会を開かずに常置委員の急施会で決議されたことにあったが、底流には常置委員主導の県会運営に対する不満があった。通常会は冒頭より、臨時会を開催しなかった理由を理事者および常置委員にくり返し説明を求め紛糾し、常置委員辞職勧告まで提案されるにいたった。
 また、この通常会の紛糾をいっそう大きくした要因として勧業費をめぐる対立があった。松方デフレ後の企業勃興の時代的趨勢に対応するため、県は織物・製糸・製紙・畜産などに総額三万円余の予算を計上し、県官が県会議員に強引な根回しを行っていた。このことも県会議員の多くを刺激したのである。郡レベルの地域利害を背景に選出された地主議員にとっては、織物伝習所費などは福井のごく一部の機業家(士族)だけのためとしか理解できなかった。
 このように常置委員や勧業費に対する抵抗や反対から、県会はほぼ二分され激しく対立した。二十年度予算の土木費削減に対して石黒知事は内務大臣の指揮権発動により土木費復活をはかった経緯もあり、知事や常置委員への反対派は、議会の解散をねらい師範学校費の全廃という建議案を提出した。理事者側の説得にもかかわらず、二五人の出席議員中一八人の賛成で建議案は可決され、石黒知事は二十一年十二月八日、通常県会を中止した。そしてこの建議案の可決は、一県に必ず一尋常師範学校を設置するという師範学校令(勅令第一三号)に反することとなり、当然のことながら内務大臣には認可されず、十二月二十二日、福井県会最初の解散という事態となった。
写真43 県会解散の命令書

写真43 県会解散の命令書

 翌二十二年一月に解散後の県会議員選挙は、明治憲法発布や衆議院議員選挙を控えていることもあり、激しい選挙戦が行われた。その結果当選者は、前議員が一九人、元議員が六人、新人が一一人であった。師範学校費全廃建議案に賛成した一八人のうち一〇人が再選されており、県会議員の知事や常置委員への抵抗は、県民の支持をうけていたと思われる。また、新県会は新人議員が多数登場し、十四年五月の県会議員平均年齢四〇・五歳が三七・五歳と約四歳の若返りとなった。このほか、士族や商人の県会議員も十四年五月と比べてもより少数となり、三六人のほとんどは地主議員となったのである。松方デフレによる農村疲弊を経て、新県会は民力の休養を唱え、農民への課税にはより防御的となったといえよう。したがって、二月の再開通常県会においても勧業費は再び大幅削減となり、織物伝習所費など多くの費目は全廃され、二次会での決議額は原案の一割未満となった。羽二重を中心とする絹織物業に象徴される企業勃興という課題に対して福井県会は終始消極的であり、日清戦争前まで勧業費は一〇〇〇〜五〇〇〇円台という低額であった。
 なお、石黒知事は再開通常県会を前に内務大臣の命により上京し、同県会が閉会となった二月十八日の八日後に非職となった。
 ここに八年余にわたる石黒県政は終止符を打ち、旧薩摩藩士で内務省一等警視であった安立利綱が二代目知事に就任した。石黒県政の十年代後半は、地租改正事業を終結に導き、嶺南・嶺北の対立緩和や松方デフレの農村疲弊からの回復に腐心してきた。しかし、十年代末から二十年代に入ると長期石黒県政は、憲法発布を控えての県会の新しい動きや企業勃興などの時代的趨勢に対応しきれなくなっていたのであった。石黒知事が非職となった二十二年二月は、十一日に明治憲法発布の式典が東京で挙行され、また、十六日には市制、町村制の四月一日施行が県令として布達されており、「明治憲法体制」といわれる新しい時代の始まりを告げる時期でもあった(『明治二十二年度通常県会議事日誌』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ