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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      県財政からみた石黒県政
 図8は、明治期の福井県の歳出規模の推移を表わしたものである。一見して明らかなように、日清戦争までの明治前期の歳出額は、二〇万円台の後半から三〇万円台の前半で推移しており、規模においてはほぼ停滞傾向を示す。日清戦争以後の明治後期はこれとは対照的であり、県の歳出額は明治二十八年(一八九五)の約四〇万円が四十四年には約一二〇万円へと三倍に膨張する。
図8 県・市町村歳出の推移(明治14〜44年)

図8 県・市町村歳出の推移(明治14〜44年)
注) 『県統計書』による.

 このように十四年から二十二年にわたる石黒県政期は、県財政規模の推移からみると停滞期といえよう。まず県歳入の大半を占める地方税(県税)収入の内訳を表32によりみてみよう。この時期一貫して地租割が、全地方税収入の五〇パーセントを超えており、これに戸数割を加えると全体の四分の三を超え、この比率は全国的にみても高い。県財政は、土地所有者(地主)からの税収入に大きく頼らねばならない構造になっていた。

表32 地方税(県税)歳入(明治14〜27年度

表32 地方税(県税)歳入(明治14〜27年度
 一方、表33から歳出面をみると、一貫して土木費が歳出の首位を占めている。また、二十二年の市制、町村制施行時までは、戸長役場関係費が二割近くあり、これに警察費・監獄費・郡役所費などを合わせた制度および事務経費が六割を超えている。この数値と後述の土木費の中味を検討すると、石黒県政期の財政支出にはほとんど弾力性がなかったといえる。このことは、財政がますます苦しくなる松方デフレ期に、県立病院や小浜中学校などが廃止され、ただでさえ予算規模の小さかった教育費、衛生費や勧業費が歳出減となっていることからも明らかである。

表33 県歳出(明治14〜27年度) <拡大表

表33 県歳出(明治14〜27年度)
 この時期県歳出のなかで土木費が首位を占めたのは、福井県が積極的に土木行政を推進したためではなかった。石黒県政が開始された十四年以降二十年代前半にかけて、連年のように水害に見舞われ、県下の河川は大小を問わず堤防が決壊し、橋梁が流失し被害価額は巨額となった。そのための災害復旧費が土木費の比重を高めたのである。
 土木費は県が施行する土木費と町村土木補助費に区分されており、十四年と二十二年を除くと土木行政は町村土木補助費を中心とするものであった。町村土木費補助という地方税の支出方法では、本格的な治水事業や道路開鑿事業は望むべくもなかった。この時期で唯一洪水被害のなかった十五年度の予算でも、県土木費一万五〇〇〇余円は、道路橋梁修繕費であり、このうち北陸道には四二〇〇余円が、その他県下主要九道には平均一四〇〇余円が計上されている。これが町村土木補助費になるとさらに小規模となり、道路橋梁修繕費二六〇〇余円が前記の九道以外の一二道に平均三〇〇余円ずつ予算計上されている。また、町村土木補助費の大半は三万五〇〇〇余円の堤防修繕費であるが、内訳は九頭竜川が一万七〇〇〇余円、それ以外の二〇数河川で二万八〇〇〇余円である。県下最大の河川である九頭竜川には一万七〇〇〇余円の堤防修繕費が計上されているが、これとても上・中・下流の数多くの町村からの土木費補助申請をうけて予算化されたのであり、系統的な治水事業にはなりうべくもなかった(第三章第四節二)。
 そのなかで、石黒県政期の唯一本格的な土木行政は、十八年三月の通常県会で議決された、十八、十九両年度で予算一八万四〇〇〇余円での春日野新道(敦賀道)開鑿と、八〇〇〇余円での丹後道の須上峠と吉坂峠の開鑿であった。国庫補助六万五〇〇〇余円と寄付金約三万五〇〇〇円に地方税九万四〇〇〇余円を二か年で支出するという画期的な事業であった。しかし、この事業も同年七月の大水害により、災害復旧に予算が流用されるなど所期の目的を完遂させるためにはさまざまな困難があった。



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