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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      「福井県民」意識のめばえ
 福井県が設置された一周年を祝し、明治十五年(一八八二)二月七日に旧福井藩主松平慶永(春嶽)は、石黒県令と多賀少書記官あてに書簡を送っている。そのなかで春嶽は、「本日ハ越前旧士民ニ無窮ノ幸福ヲ大政府ヨリ授与サレタル大祝日」であり、「牧民官」として令名の高い県令と越前の民情を熟知した少書記官が赴任されたことはたいへん心強い、自分もまたおよばずながら福井県の発展に微力を尽したいと述べている(「家譜」)。この福井県の設置は、福井の士族や商人を中心に歓迎され、彼らが発起して県令以下の県官を招待し、二月七日を記念する置県懇親会を開催していた。これが、後述の車道開鑿による若越一体化が強く叫ばれた十八年には、「第四回福井置県紀念会」と改称され、県下各地へも参加を呼びかけて照手座で盛大に開かれた。以後この「紀念会」は恒例となる。
写真41 置県1周年を祝う春嶽の書簡

写真41 置県1周年を祝う春嶽の書簡

 また、福井県の設置を契機として十四、五年にかけて県下に四つの大新聞、小新聞が刊行され、なかでも十四年十月に福井で発刊された『福井新聞』は、紙名や経営者を変えながらも十年代後半から二十年代半ばまで刊行され、福井県の言論界を主導した(第一章第三節三)。『福井新聞』は、福井の士族が発起して発刊され、おもに福井を中心とした嶺北地方で約五〇〇部前後の読者を獲得していたのであるが、この新聞のなかで「福井県民」という言葉が使われ始めた。
 十五年七月十八日の同紙の社説「我福井県下人士ニ告グ」は、福井県における主体的「政事思想」の確立を訴え「吾人福井県民ハ自個ガ郷里ナル福井県下若越二州ノ公益ヲ保持シ計画シ、以テ終ニ他ノ北陸道ニ及ビ日本全帝国ニ及バサル可カラス」と述べている。十七年に入ると、元福井新聞記者吉田順吉が政談演説会で、「公平無私ノ精神を以て共に自由ノ伸暢民権ノ拡張に熱心尽力し、吾人福井県民をして充分に満足を与へしめん事を望む」と述べたと報道されているが、ここでも民権家の団結と自由民権運動の進展を福井県民が望んでいるという論を展開している(『福井新聞』明17・3・14)。『福井新聞』と名づけられた新聞が、「福井県民」という言葉を使用しはじめるのはごく当たり前のことともいえるが、民権思想(運動)の記事のなかで使われ始めたことは注目されてよい。しかし、自由民権運動が退潮し、改正集会条例により福井での政談演説会もあいついで中止解散に追込まれた十七年半ばからは、「福井県民」という言葉はこうした民権思想との関連では同紙には見られなくなる。
 これに代わって、全国の府県と比較して福井県の車道開鑿が遅れて商工業が振るわないという危機意識が生まれ、それを克服する「県民」運動の盛り上がりが期待され「福井県民」という言葉が使われるようになる。敦賀・富山間の東北鉄道敷設計画が挫折し、木ノ芽嶺の大山塊を縦断して大阪や名古屋へ通じる車道の開鑿が進んでいないことが、維新以後の商工業衰退を招き、全国各府県のなかで福井県の地位を低下させているという意識が人びとの間にもたれ始めていた。また、十六年五月の布告布達の東京からの到達日数の改定で、福井県は八日とされるが、これは島根・高知・秋田県と同じ日数で、鳥取・岩手県より一日遅くなっていた(太政官布達第一四号)。『福井新聞』は、このような改正がなされたのもひとえに交通網の整備が遅れているためであり、鉄道計画が挫折した今日、車道開鑿のため「応分ノ資本」を寄付し「県民タルノ義務」を尽すべきであると主張している(『福井新聞』明16・6・7、10)。
 この問題は、このころより絶えず『福井新聞』紙上に取り上げられるが、翌十七年七月、来福した豊島農商務省一等属一行と福井商法会議所員の懇談を契機に車道開鑿の機運が盛り上がる。同会議所は臨時大会を八月十三日に開催し、福井・敦賀間の春日野新道開鑿を基軸にして敦賀・舞鶴間(丹後道)および福井・三国間、福井・大野間の県下四主要道路の開鑿・改修のための運動を行うことを決議した。また、車道開鑿委員を選出し、敦賀・武生・大野・勝山・三国などの県内各地をはじめ京阪地方や東京へも派出し、運動への参加と寄付金の募集を依頼した(『福井新聞』明17・7・9、8・20)。『福井新聞』は、この動きを地域利害にとらわれない「県民」の運動にしなければ成功しないと主張するとともに、寄付金募集状況を連日のように報道している。寄付金も県内外から約三万五〇〇〇円が集まり、福井県も十八年三月の通常会に、予算約一八万四〇〇〇余円による春日野新道と丹後道の須上峠と吉坂峠の開鑿事業を提案した。同紙の十八年三月三日の社説「福井県会開場」は、車道開鑿は「福井県民ノ世論」であるから県会も大いにこのことに留意して予算審議に尽力されたいとしている。 写真42 『福井新聞』社説

写真42 『福井新聞』社説

 このように、十年代後半になると福井県の全国的な地位の低下が、商工層も含めた広い範囲で自覚されるなかで「福井県民」が語られるようになる。一八万余円の車道開鑿費を予算として計上した石黒県令にとっても、地域利害を克服し若越一体化をはかるため、つねに「福井県民」としての同一性の確保が大きな課題であった。




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