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 第一章 近代福井の夜明け
   第四節 福井県の誕生
    二 石黒県政と県会
      嶺南四郡の「復県運動」
 福井県の設置は、すでに述べたように千阪石川県令の建言を政府が採用して実現した。彼の建言は、石川県政下での嶺北七郡の地租改正問題や分県運動などに対する解決策として提出されたものであるが、嶺南四郡の人びとにとっては、滋賀県からの分離と福井県の新設は、青天の霹靂ともいえる事件であり、積極的理由がなく受入れ難いものであった。このため福井県の設置は、嶺南四郡の滋賀県への「復県運動」というかたちで再び嶺北・嶺南問題を生じさせることになり、石黒県政もそれへの対応をせまられることとなった。
 福井県設置により滋賀県から分離されることを知った遠敷郡では、ただちに士族が中心となり、明治十四年(一八八一)二月十四日に「復県請願」のための会議をもった。近世の郷組を利用して、全郡民が参加するかたちで、組ごとに総代人が選出された。彼らによって請願運動の組織・方針が決定され、まず、総代一〇名の連署で嘆願書を政府へ提出した。それとともに、「請願人」として藤田孫平(のちの三方・遠敷郡長、衆議院議員)、行方正言(士族、のちの雲浜製糸社長)、小畑岩次郎(のちの県吏員、衆議院議員)の三人が選出されたほか、小林守など五人の「請願議員」や会計取扱人も決められた。また、この「復県請願」を嶺南四郡の運動にするため、大飯・三方・敦賀郡へ請願人や請願議員が派遣されるとともに、二十七日には、藤田、行方と小林が滋賀県大津へ請願に向かった(岡本卯兵衛家文書)。
 一行は、大津で篭手田滋賀県令に熱心な請願を行っているが、県令自身が太政官三号(福井置県とともに堺県の大阪府への併合を布告)による滋賀県からの嶺南四郡の分轄を、滋賀県の京都府併合への危機感と重ね合わせてとらえていた。彼は、二月から三月にかけて何回か政府に建議を行い、府県区画変更への政府の慎重な対応を強く求めた。また、三月十二日の「土地人民」の引継ぎの際には、これら政府への建議とともに「若越四郡分轄建言添書」を石黒福井県令に送り、廃藩置県以後の府県分合の歴史を述べ、最後に「決シテ嶺南ト嶺北トヲ併セテ以テ一統治ニ帰スヘカラサルナリ」と結んでいた。滋賀県令のこのような熱心な取組みを確認した請願人は、さらに三月五日には東京へ向かった。この政府要人への「復県請願」を目的とした東京滞在は、二か月にも及んだが、みるべき成果は得られなかった(岡本卯兵衛家文書)。
 藤田孫平は、東京滞在の間に遠敷郡の県会議員に当選していたが、帰郷すると五月十四日に同郡選出の三久保耕作とともに辞職、続いて同郡の井崎清兵衛、敦賀郡の片山政治郎が辞職し、福井県設置後初めての臨時県会に抵抗の姿勢をみせた。しかしその後、藤田も石黒県令の説得に応じ、七月開会の通常県会には三人の遠敷郡選出県会議員も全員出席する。こうして、最初の「復県運動」もこのころにはほぼ終息し、総額五〇〇円余の運動費が遠敷郡の各村へ一戸あたり四銭八厘余ずつ割り当てられた。
写真40 復県請願運動の精算書

写真40 復県請願運動の精算書

 しかし、その後も「復県」への動きはさまざまなかたちで続いた。十四年秋には敦賀の商人を中心に、営業税・雑種税などが滋賀県より高いことに抗議する集会が復県への動きをみせ、翌十五年五月には藤田孫平、柴田早苗らの県会議員が地方巡察使に直訴し、六月には嶺南四郡の県会議員八名の連署で「復県建言」を元老院へ提出した。さらに、十六年三月の通常県会には大飯郡選出議員の時岡又左衛門から「若越管轄分離」の建言が提出され(一一対一七で否決)、またこの年には小浜の商人武田喜兵衛が「若狭国一円及ヒ越前国敦賀郡ヲ滋賀県ヘ復轄ノ議」を元老院へ提出した(『江越日報』明14・10・26、15・5・27、資10 一―一五〇、『福井新聞』明16・3・24、『建白書一覧表』)。
 このような嶺南四郡の「復県運動」の背景として、この時期の自由民権運動との関連を見逃すことができない。十五年の「復県建言」連署者の県会議員八人のうち柴田早苗(敦賀郡)と千田千太郎・小畑三郎右衛門(三方郡)は大阪で結成された立憲政党員であり、藤田孫平とともに十五年六、七月の立憲政党の福井県遊説を支援している。府県分合に対する地域住民の世論の尊重を主張する「復県運動」は、民権尊重の主張という側面をもっていたのである(資10 一―二四六、二四七)。
 こうした遠敷郡を中心とする嶺南四郡の「復県」への動きに対して、石黒県令も嶺南・嶺北の融和策を講ぜざるをえなかった。たとえば、彼の上申により、福井県設置のため金沢裁判所管内に入った嶺南四郡は、七月二十九日に京都裁判所管内への再編入が認められた(太政官布告第三九号)。また、十四年度政府予算には計画されていなかった小浜電信分局設置が、他の電信敷設計画を遅らせるという強引な手法で認められている(第三章第四節一)。このほか、七月の通常県会では小浜小学師範・中学校開設費がほぼ原案のまま議決され、十四年十二月にはその設置が管内に布達されたことも嶺南四郡への配慮の一つと考えられる(甲第二一六、二二一号)。
 このように「復県」を訴える嶺南四郡民への融和策が行われたのであるが、嶺南・嶺北という地域対立の構図は、なお明治十年代の後半から二十年代前半の県政において克服すべき大きな課題として存在し続けるのである。



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