発足当初の福井県政はさまざまな懸案を抱えていたが、何より石川県から引き継いだ越前七郡地租改正事業を終結させ、早急に地価帳など徴税のための基礎帳簿を整理して、延納や未納者が多く混乱をきわめていた徴税事務の円滑化をはかることが大きな課題であった(明治一五年「公文録」)。
明治十二年(一八七九)十二月に越前七郡は、政府から地租改正再調査を獲得し、丈量と収穫高の再調査がなされた。その結果、地租は約四万三〇〇〇余円の減額となった。しかし、この時の再調査も不当とする村むらは、十三年九月に福井の東別院に招集され、受書の提出を強要された。再調査の終結を急ぐ千阪石川県令は懐柔策を行い、太政官第二五号を根拠にして十四年の再見直しを約束した「指令」を出すことにより、これら二三三か村から受書を提出させた。(杉田定一家文書、『福井新聞』明15・9・22、26)。
しかし、十四年二月に設置された福井県は、同年五月、この「指令」の無効を郡役所を通じて各村に通達した。これに対して、天真社(法理研究所)に結集する村むらを中心に抗議行動が続けられ、地租改正事業は再び頓挫した(第一章第三節一)。
石黒県令は、このような抗議行動や請願を公式には無視・却下する一方、この状況を打開するため、何度か地価再修正を政府へ上申していた。その結果、十五年七月、政府は「先般来屡該県令ヨリ申立ノ趣、事情無余儀相聞候ニ付、不都合ニハ候ヘトモ挙行ノ義聞届候」として、地価再修正および丈量誤謬訂正の費用一万二〇〇〇余円を認めた(明治一五年「公文録」)。八月から十月にかけて、有尾大蔵省少書記官が派遣され、石黒県令はじめ県職員とともに越前各郡の実地調査を行った。しかし、この再調査は『福井新聞』が「今回の地価修正検査は余程厳にさるるや」と述べているように、官側の主導で進められた。地価再修正に対する農民の主張はまったく聞き入れられず、丈量の誤謬が認められただけで、二〇六か村は取消願書を提出せざるをえなかった。最後まで抵抗する二七か村では、一筆ごとの綿密な調査が行われ、その結果が大蔵省へ送られた。しかし、同年十二月には同省からの地価修正不要という指示が、これらの村むらに通達された(「福井県史料」二八、『福井新聞』明15・10・6、8)。その後も「猶不服申張候村々有之、漸ク十六年七月ニ至リ全ク決了」とあるように、これら二七か村によるなんらかの抵抗があったものの、福井県は十六年七月、長期にわたる越前七郡の地価修正事業が終結したことを政府へ報告している(「公文類聚」第八編)。 |