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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     二 初期民会の開設
      第三回敦賀県会
 明治九年(一八七六)六月七日より一〇日間の予定で、武生の引接寺を会場に第三回の区長会議が開かれている。この会議については第十二大区の二小区の戸長で丹生郡蒲生浦(越廼村)の青木勝左右の記録が残されている(青木喬家文書)。審議の内容は、貸座敷税を改正のこと、県会議事仮規則改定のこと、警察費を増加すること、県税一万一〇〇〇余円の使途については、学事小学・医学・土木・勧業の四件を最優先すること、まず大区会を開きこれを模範として逐次小区会を開くこと(ただし十年からは小区会をさきに開く)、県会議員を互選によりさらに二〇人増員すること、消防組を設置すること、大区会議事章程を審議することなどであった。この結果は、たとえば、六月十七日改訂県会議事規則(敦賀県第一八七号)、同十九日大区会議事規則(敦賀県第一八六号)、同二十六日消防組編製方仮規則(敦賀県第一九八号)などとして順次布達され、実施に移された。
写真16 県会議事規則

写真16 県会議事規則

 敦賀県会は、九年八月に敦賀県が廃止されたため、この第三回でもって終わっているが、そこではおもに民費に関することが審議され、その結果は、多くの場合、布令として実現された。足羽県を合併した早々に真宗門徒の一揆を引き起こしたことも影響していたとは思われるが、敦賀県は県会での審議をとおして民情をくみあげるなか、県行政を行っていたと考えられる。また、大区会や小区会を志向して、区長や戸長による審議事項の末端までの徹底をはかっており、大区小区制を機能させるためにも県会は不可欠であったといえよう。



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