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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     二 初期民会の開設
      第二回敦賀県会
 ついで、明治八年(一八七五)十一月十九日より二十五日まで敦賀月見町永源寺で県会が開かれている(岡本卯兵衛家文書)。区長、学区取締、伝習所校長あての召集状には、議題として、管内各小学の振興策などがあげられ、また、学事に関する六項目の概目が添えられていることから、まさしく学事振興に関する県会であったことがわかる。区長のほかは学事の会議中のみ出場することとなっていたが、その審議内容は学区取締吉田拙蔵の「静斎日誌」に「学事会議方案」として残されており、審議結果は十二月四日の「公学規則」(敦賀県第二九四号)として公布され実施に移されている。教育以外の件では、小区会を九年二月の戸長改選を待って、開くことを決めた(青木喬家文書)。
 なお、この時期、敦賀県は、民費賦課法について、十二月七日に二等道路橋梁修繕費の管内民費分を、従来の反別割から、賦課区域を定めて戸数割に改正し(敦賀県第二九五号)、また、一等二等河港道路修築経費の民費負担方法についても改正した(敦賀県第二九八号)。これらは第一回の会議の内容をふまえながら、再度諮問され、その審議結果が反映されたものと推定される。



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