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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
     二 初期民会の開設
      区長事務連絡会
 明治五年(一八七二)十一月、敦賀県は大区小区制をしき県下を二九大区に区分して、大区に正権区長、小区に正副戸長を置いた(資10 一―一〇四)。この時、南条・今立両郡の区長(第二十〜二十九大区)は会議を開いて「小区規則書」(石倉家文書)を取り決め、そのなかで、一大区ごとに区長宅で戸長副戸長が一堂に集会し、事務について相談することとしている。さらに翌六年二月には、両郡の区長惣代が、区内を「一村」とみなし、あらかじめ両郡一般の規則を設けるため会合した。その結果、村役の廃止にともなう伍長の設置など五か条にわたる伺いを県に提出した(岡文雄家文書)。このように、区長たちは、自主的に集会を開いて、新しい事態に対処していた。
 六年一月に足羽県を合併した敦賀県は、五月より本県(旧敦賀県)と支庁(旧足羽県)を単位に大区小区制の改正作業を行った。八月に新区長、戸長に示された「区戸長へ演達之控」では、年四回県会を開き、その前に小区内の正副戸長を大区の会所へ集めて協議させ、それを書類にして会議に出席するようにと、はじめて県会、区会についての考えが示された(岡文雄家文書)。
写真14 「区戸長へ演達之控」

写真14 「区戸長へ演達之控」

 この大区小区制は六年九月一日より施行されるが、県ではこの後すぐに再度大区小区制の改正作業に入り、まず十二月末で大区が廃止された(資10 一―一〇三)。新大区は一九となり、区長および区長補助は翌七年一月四日に任命され、福井支庁には嶺北七郡の区長・区長補助が集められた(「静斎日誌」)。そこで、小区組替え、正副戸長改正、公選入札方法、戸籍改正などについての指示があり、「民会議事」については、まず最初に区長を議員とする県会を開き、町村会と区会は「追て興起スベシ」とされた(坪田仁兵衛家文書)。この後、区長による集会がもたれており、各区の申合せとして、毎月十五日に区長および学区取締による支庁集会を福井清和楼において開くことを決めていた。また、「区会所章程」(敦賀県第二九号)について、検討を加えており、一月二十五日の福井集会で決議を仰ぐとしている(坪田仁兵衛家文書)。一月四日付の「同章程」は、実際は一月末に公布されており、この結果が反映されたものと思われる。支庁単位ではあるが、自主的な区長会が学区取締を含めて開催されていることは、注目してよいであろう。
 このように、敦賀県は、最初は、区会、県会と下から積み上げる方式を考えたのであるが、とりあえずは県会を開き、区会(大区会)、町村会(小区会)については県会で審議をすることとしたのである。県会の議員を区長(官選)とするほかは示されておらず、区会の議員は戸長(民選)、小区会は副戸長・総代人(民選)と考えられていたようで、新たに公選するという考えは、この後も諮問されることはなかった。
 ところで、七年四月十五日、区長および学区取締役を武生に召集して、中学校の設置問題、師範学校の拡張についての協議がなされている。詳細は不明であるが、寺島直権令代理が出席していること、福井でなく武生で開かれていることなどから、この会議は、支庁単位でなく全県下の区長および学区取締を集めた県会であったと思われる。しかし、会議規則は未定であり、あらかじめ、審議内容はすべて「他日官府ノ取捨ニ任スベシ」などと四か条の守るべきことが示されただけであった(「静斎日誌」)。議事規則のもとに県会が開かれるのは八年になってからである。
 四月二十八日、中学新設と小学充実のための賦課金が改正され、中学費の廃止と師範学校費の新設、および師範学校規則が公布されたのは(滋賀県第一〇〇号)、この会議の結果が反映されたものと思われる。



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