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 第一章 近代福井の夜明け
   第二節 藩から県へ
    一 廃藩置県と県域の変遷
      県域の変遷と職員
 敦賀県は若狭一国と越前国の三郡(今立・南条・敦賀郡)の二三万石余を管轄し、敦賀結城町に県庁を置いた(「福井県史料」三三)。はじめ、元小浜県庁と元鯖江県庁に出張所を置いて大飯、遠敷の二郡(当初は三方郡を含む)と、今立、南条の二郡の諸願伺届などを受理したが、明治五年(一八七二)三月にはこれを廃止した(岡文雄家文書)。熊谷直光敦賀県参事は五年二月二十九日に戸籍権頭に転任し、後任には四月二日、藤井勉三が就任した。兼松貞権参事は旧本保県権参事で置県当時上京中であったが、三月七日赴任することなく依願退職し、寺島直が三月七日権参事に昇格した。なお、熊谷参事の転任にともなって大属二人もあいついで中央に転出し、置県わずかにして県首脳が入れ替わる結果となった。「県治条例」による判任官の定員は三三人であるが、「官員履歴」によれば五年三月には三二人が確認される(「福井県史料」三八)。
 足羽県は越前国の五郡(足羽・吉田・坂井・大野・丹生郡)五四万石余を管轄し、県庁を福井佐佳枝上町に置いた(「福井県史料」三三)。五年二月大野町に出張所を置き大野郡の諸願伺届などを受理した(資10 一―九二)。「県治条例」による判任官の定員は五七人であるが、「奏任履歴表」「判任履歴表」(松平文庫)などによれば、五年三月には五一人が確認される。また、「同条例」は庁内事務を庶務、聴訟、租税、出納課に分け、課長に典事をあてたが、長崎基近(庶務)、鈴木準道(聴訟)、本多真事(租税)、小村績(出納)といずれも旧福井藩士であった。なお、五年十一月十七日、足羽県管下の白山社と牛首村(石川県白峰村)ほか一七か村が石川県に編入された(「太政類典」第二編第九七巻)。 
 六年一月十四日、敦賀県は足羽県を合併し、二月二十六日には旧足羽県庁を支庁とした(資10 一―九九)。藤井勉三参事が権令に昇格
写真12 藤井勉三

写真12 藤井勉三

し、参事には村田氏寿旧足羽県参事があてられた(敦賀県第一一、一三号)。合併により判任官以上の定員は六九人となった。前出の「官員履歴」では六年三月末現在で五八人が確認できるが、敦賀県職員が現状維持であるのに対して足羽県職員の大幅削減が特徴となっており、しかも残留職員のほとんどが福井支庁勤務であった(坪川家文書)。この合併の理由の一つが足羽県の旧福井藩勢力の削減にあったとされるゆえんである。また、典事に旧丸岡藩大参事の有馬天然、九等出仕に旧小浜藩権大参事の相馬朔郎が就任している。有馬は六月には依願免職となり、相馬は累進して九年一月には権参事となる。
 藤井勉三権令は病気がちであったが八年一月三十一日、広島県権令に転出、同日付で山田武甫内務省六等出仕が敦賀県権令に就任し、二月九日には着任した。村田氏寿参事は六年十一月岐阜県権令に転出、寺島直権参事が参事に昇進した(「敦賀県報告」)。なお、村田は一か月後には内務大丞に転じ警保頭を兼務、神風連の乱などの平定にあたったが、彼の転任は、県庁内での旧福井藩士族の退潮を決定的なものとした。
 敦賀県庁は、当初旧小浜県支庁を利用していたが、足羽県の合併を契機に新築することとなり、五月二日には仮県庁の今浜村永建寺に移った。同年末には新庁舎が落成、七年一月より事務取扱を開始した(資10 一―九九〜一〇一)。
 県庁内の各課には掛が置かれており、六年十一月には、庶務課に戸籍、学務、医業、編集、駅逓、兵務、聴訟課に擬律、檻獄、懲役、租税課に地税、収税、勧業、土木、印紙、出納課に公債、家禄、勘定、用度、貸下の各掛が置かれていた。また、福井支庁には聴訟課と庶務課(租税、出納を兼ねる)を置き、「細微急迫」のことを処置させた。その後、八年四月庶務課に警察掛、懲役掛を置き、同月二十七日「県治条例」の改正により学務課を新設して医業掛を付属させるなどの改変があった(「敦賀県報告」)。ついで同年十一月には「県治条例」が廃止され「府県職制並事務章程」(太政官達第二〇三号)が定められたため、事務の分掌は第一課庶務、第二課勧業、第三課租税、第四課警保、第五課学務、第六課出納の六課となった。続いて九年二月、課の合併減少、掛の新設が、府県の事情により許されることとなった。
 九年八月二十一日には敦賀県は廃され、嶺北七郡が石川県に、嶺
写真13 敦賀県庁

写真13 敦賀県庁

南四郡が滋賀県に分属することとなった(太政官第一一二号)。同月、旧敦賀県庁に同県出張所が置かれたが、翌月には廃された(滋賀県丙第一四四号)。また、十月には旧福井県庁に石川県支庁が置かれた(「石川県史料」一)。敦賀県の判任官以上九六人のうち石川県へ二七人、滋賀県へは六人が赴任している。相馬朔郎権参事は十一月に石川県大属第二課長に任じられ、十年七月から十一年一月までは福井支庁長をつとめた(「石川県史料」六三)。また山田武甫権令は官を辞して郷里熊本に帰り、のち自由民権運動に参加することになる。



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