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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     五 越前真宗門徒の大決起
      官側の対応
 大野郡はじめ今立・坂井両郡下の処罰者は、敦賀県から政府への報告書によれば、表10のとおり、総数八四三九人(死罪六人を含む)、贖罪金二万三〇九円余の巨額に達している。また、「越前国大野外二郡暴動附和隨行人罪案」(法務省法務図書館所蔵文書)には、大野(一三五村出動)・今立(七五村出動)・坂井(一二一村出動)三郡の大半に、一部吉田郡(四村出動)を含め、計八〇二八人にのぼる贖罪金被賦課者の名列を村別に掲げるが、出動者にはすべて「贖罪金」(竹槍・棒等の持参者には三円、不持参者には二円二五銭)を課するという強硬措置がとられたのである。 表10 大野・今立・坂井郡の受刑者数

表10 大野・今立・坂井郡の受刑者数
 県では、四月早々政府に対して、罹災者への「救恤金」の貸与申請を行った。その「伺い書」のなかでは、区戸長の罹災者はもちろん、直接その被害を受けない他郡の末端支配層までが大一揆の脅威におののき、「退役辞職を表する者連綿として絶たず」という危惧すべき政治社会情勢を醸し出したことを訴える(『明治初年農民騒擾録』)。政府はこれに対し四月十日付で、総額三一〇〇円を大野・今立両郡の一三人に貸与して救助するよう指令している。その際同じ被害者でも、区戸長などの役職のない寺院や豪農商層には貸与されておらず、権力支配の末端統治組織の保持、強化に腐心する明治政権の企図するところがはっきりうかがわれる。
 そこで、本一揆の歴史的性格については、いわゆる「真宗地帯」での「護法」的課題を直接的な契機としながらも、一揆勢の諸要求や攻撃目標・主導的諸階層などからみて、本質的には、明治初年の「世直し型」の性格をはらみながら、同時に「惣百姓型」一揆の動向がきわめて顕著に現れている。したがって全国的にみて、おもに明治四年から六年にかけて生起し、とくに六年段階でピークを迎える「護法一揆」の特質を、きわめて明瞭に示すものであった。



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