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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     五 越前真宗門徒の大決起
      明治政権の教化政策
 維新政権成立直後の慶応四年(一八六八)三月、神祇事務局より、いわゆる「神仏判然令」(神仏分離令)が出された。さらに翌明治二年三月、政府は太政官に教導取調局を設けて神道宣布の方策を検討させ、翌三年正月、「大教宣布の詔」を布告した。こうした「神道国教化」政策の推進は、いうまでもなく、天皇制絶対主義国家の基盤をつくるためのイデオロギー的支柱の構築を意味していた。
 ところが一方、「神仏分離運動」の展開は、いきおい全国的な「廃仏毀釈」を誘発する。越前での廃仏運動のうちとくに顕著なものとして、『明治維新神仏分離史料』が大野郡石徹白村(岐阜県白鳥町)の具体例をあげている。同村では、二年四月二十七日夜の廃仏沙汰で、神社前の河原に、社内の仏像を持ち出して打ちくだき焼き捨てたが、その後「焼跡の仏像の御手やら、御光やら、焼け残りを拾ひ持来る人もあり」というありさまであった。こうした地域住民の廃仏運動に憤慨した上村五郎左衛門・須甲磯右衛門らが、同年秋に、はるばる京都の本願寺に「出訴」するため出向いた。
 二年から三年にかけて、全国の諸藩で強引に実施された廃合寺問題については、越前での詳しいことは不分明であるが、福井藩領内の廃合寺は、四年二月八日付の同藩から弁官あての届書によると、坂井郡小和田村(小幡村)蓮勝寺(日蓮宗)が福井顕勝寺(法華宗)へ合併したのをはじめとして八六件を数える。北陸地方では、富山藩が全国的にみてもっともきびしい廃合寺を行ったが、それに比べると福井藩は、比較的寛大な方であったといえる。
 こうした強引な神仏分離政策に起因する廃仏毀釈や廃合寺問題により、政府自らも神道を基軸とする民衆教化の限界を知り、従来の過激な「神道国教化」政策の転換をせまられる。五年三月、神祇省を廃止して新たに教部省を設置したが、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線をめざしていた。
 その際の基本的な教条として、「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」の「三条の教則」を定めたが、この教則の内容を具体化した「一七兼題」には、「神道主義」の復古的なもののほかに、開明政策的な標題もかなり含まれる。
 教部省は五年四月二十五日、教導職を置いて大教正以下権訓導まで一四級に分け、まず神職・僧侶が任命された。敦賀県下の教導職は、神官が三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという圧倒的な比重を占める(「福井県史料」三四)。このことは、同県では、寺院側とりわけその過半を占める真宗寺院勢力の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示しているといえよう。
 ところで、こうした明治初年に、北陸地方はじめ全国各地の真宗地帯で、僧侶・門徒層が決起するという、いわゆる「護法一揆」の続発が注目をひく。三年十月の「多度津藩下騒動」(香川県)はじめ一〇件ほどを数えるが、これらのほとんどが、翌四年の廃藩置県より明治政権が中央集権的絶対主義の国家体制を指向する段階、つまり五、六年を中心に生起する。
 敦賀県でも、五年の新潟県下の「信越地方土寇蜂起事件」にほぼ匹敵するほどの大規模な「越前護法大一揆」が、翌六年三月に大野・今立・坂井三郡下で勃発し、じつに三万人以上の出動をみるにいたる(図1)。こうした一揆は、とくに真宗地帯での「護法」的要因を直接の発端とする点で、明治初年に高揚する一般の農民一揆とは、その歴史的性格を異にする。前述の明治政権の教部省体制による強引な教化政策への反発を直接的な契機とするだけに、まず真宗僧侶・門徒層大決起の護法的側面に着目したい。
図1 明治6年3月越前護法大一揆の生起図

図1 明治6年3月越前護法大一揆の生起図



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