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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     四 武生騒動
      騒動の性格
 騒動の主導者の一人、高木才四郎は、後年の回顧談で、「従来(福井藩)本藩と武生藩との間柄は交際甚だ親密ならず、何事に依らず本藩は武生藩に圧制を加ふるの傾向ありし」と述懐する(資10 一―六〇)。本事件は、本多家の家格問題に端を発しながら、かねての福井藩の府中支配に対する強い反発が表面化したものといえる。また、本多家旧家臣の処遇についても、元士分の扶持米取り・切米取りが、すべて卒族に降格したのに対する大きな不満が介在していた。
 騒動が始まると、末端支配層の坊長・肆長や豪商が、激しい打ちこわしの対象となった。とりわけ、豪商の松井耕雪・山本怡仙・松村友松は、「府中三人衆」とも呼ばれ、幕末の段階から、地域の特産打刃物・越前蚊帳の製造販売に、福井藩からさまざまな特権が付与され、同藩の重商主義的な「国産奨励」の担い手ともなっていた。そのため、とかく領民からの収奪に対する日頃の不信と不満が、ついに爆発したものと考えられる。
 しかも明治二年(一八六九)の凶作は、武生地方にも大きな被害をあたえ、この際、従来の本多家支配から福井藩の直接支配に移行することに、領民の不安・動揺は、意外に大きかったとみてよい。したがって、本事件は、単なる家格問題にかかわる「騒動」ではなく、全国的に明治初年に高揚する世直し騒動や都市騒擾としての性格を強く帯びるものであった。



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