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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     四 武生騒動
      展開と顛末

表5 武生騒動の攻撃対象

表5 武生騒動の攻撃対象
 町内きっての豪商松井耕雪・松村友松・山本怡仙はじめ、表5にみるとおり、大黒町では内田甚右衛門・塚町屋・松野屋太郎兵衛、本町の浅井政右衛門、京町の八木武作、天王町の内田渓石、室町の河北屋らの米穀商・醸造業者などの豪商が、激しい打ちこわしをうけた。この際彼らの住家とともに、土蔵や酒倉内の生産用具・原料品、さらに家財などが破毀された。こうして翌八日未明になると、群衆はようやく退散し、騒動はいちおうおさまった。領民の大決起に驚いた官側は、まず在方の治安回復が肝心と、「一、火ノ元念入可申事 一、居村立騒キ申間敷事 一、村内ニ寄集リ候義一切不相成候事」との布令を村むらに厳達した(資10 一―五七)。一方、福井民政寮では、急きょ出兵し、まず一行の六人を福井へ護送し、牢舎に押し込めた。ついで騒動参加者の一斉検挙に乗り出し、旧家臣・領民合わせて一七〇余人を捕えた(表6)。そして十日以後は、福井と武生の龍泉寺・柳原の三か所できびしい取調べが行われた(『武生郷友会誌』四一付録)。

表6 武生騒動の逮捕者数

表6 武生騒動の逮捕者数
 同月二十日、福井藩公用人岡本晋は弁官あての報告書のなかで、本多家が士族に降格されたのを旧家臣らが不満とし、領民を「煽惑」したため「愚民共」が暴動に及んだと述べた(「御布令并御届書留」)。したがって、前述のとおり福井藩は、とりわけ町在の出動者の検挙に躍起となったのである。
 検挙者に対する獄舎での激しい拷問により、旧家臣の竹内団・大雲嵐渓らは獄死するありさまであった。結局発頭人として、米屋庄八・浜谷仁三郎・箒屋末吉の三人は死罪に決まり、翌四年の二月十四日に処刑されて、騒動はいったんは落着した。ところで、本多家の昇格運動で上京した松本晩翠は、その後東久世開拓使長官に従い、北海道に赴いていたが、函館で捕えられて、福井の獄に移され、ついで蟄居を命じられる。なお、本多副元は、十二年一月になって、ようやく特旨をもって華族に列せられた。



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