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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
     四 武生騒動
      騒動の発端
 福井藩家老本多家は、藩政時代から、越前府中(武生)で二万石を支配し、あたかも小領主の貫禄をみせていた。ところが、明治二年(一八六九)の版籍奉還にともない、越前の福井藩はじめ諸藩の各藩主がそれぞれ華族に列せられたのに、当時の本多副元は、福井藩の陪臣であるとの理由で、士族に格づけされてしまった。この際「福井藩本多氏を遇すること頗る冷淡にして、政府筋へ取立方申達を疎隔せりとの風説あり」との情勢下で、副元は、本多家がその由緒から華族に相当すると主張し、旧家臣も、元家老松本晩翠を筆頭に、本多家昇格の運動に懸命となった。(『県史』二藩政時代)
 また、知行地の町方や在方の領民もこれに同調し、とりわけ福井藩の直接支配から旧来の本多家支配に戻すよう訴えるため、二年末から、その代表が続々と上京した。翌三年五月には、旧家臣らで民部省に越訴したものが、謹慎処分をうけるほどとなった。さらに七月十八日、東京出訴者の智言(浄秀寺住職)はじめ六人は、民部省より東京の福井出張所預けとなり、福井藩岡嶋力太郎に引き渡されて、福井に護送されることになった(「御布令并御届書留」、資10 一―五六)。
 その知らせで領民はいたく動揺し、武生でこれをはばむ手筈を定めた。そして一行が八月七日武生入りし、亀屋町の川端茶屋で休憩した際、領民の多数が押し寄せ、六人を武生にとどめるよう願い出た。官員はこれを拒絶し、一行を引き連れて裏道より出発しようとしたが、領民がこれをこばんだので、一行は室町の旅篭当仁屋にとどまって、福井藩の指示を待つことになった。日暮れになると、「喩方ナキ真昏闇天地不紛地獄ノ有様、追々人勢四方ヨリヨイヨリヨイノ声」が諸方に響き渡り、人出が急にふえるという険悪な情勢となった。群衆が福井藩武生出張所の門前に押し寄せた際、官員が「門戸ヲ開テ二、三人引摺込テ縄ヲカク、其体見ルヨリ大勢ハヤレソラ今コソ括リヨルト、門戸ヲ打ヤラ叩ヤラ玄関役所奥ノ間マテ一統ニ押込、其勢山ニ響テ聞ヘタリ」とのありさまとなり、ここに町内での乱入・打ちこわしが始まったのである(「武生大変荒々録」、資10 一―五八)。



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