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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    三 諸藩の藩制改革
      福井藩の民政改革
 藩制改革の進展にともない、各藩では民政組織の改変を行った。ここでは旧幕府領を中心とする一一万石余の預り地を含めて、四四万石余を支配することになった福井藩を例にとって、その変遷をたどってみよう。
 慶応四年(一八六八)五月維新政府から太政官札(金札)が出されると、福井藩では同年八月、従来の産業会所を廃止して牧民会計局を新設、これに従来の札所を付属させて惣会所とした。そして、「民間ヨリ良善実意之者を公挙セられ右惣会所引請被仰付、御拝借之金札を以財本ニ備へ、御国札と取交・・・・・・く御国中致融通」させることとした。かくて、同年九月福井城下九十九橋北詰の荒木・駒屋の銀座を改め惣会所を開設、惣代役は三国の内田惣右衛門、森与兵衛、福井城下の山口小左衛門、本保(武生市)の河野退輔、府中(武生市)の松井耕雪であった。村むらから惣会所へ直接拝借を申請できるのは、肥仕入・村趣法・村励・職業派立・酒造などの資金で、救助・開田畑などの資金は藩の評定局へ申請しなければならなかった。また、用水、道路、川除普請などの費用も、郡支配の印鑑があれば、惣会所が立て替え、後に村むらの盛銀で上納返済することができた(資10 二―四、六)。
 福井藩の金札貸付の実態は不明の点が多いが、越前藩生糸買付けとして、明治元年十月一三万両、十一月一〇万両の計二三万両の記録があり、また福井藩拝借として同年六月五万両、十一月五万両、十二月七万両、翌年一月五万両、福井藩預所拝借として元年六月三万両、翌年一月三万両の合計二八万両の記録があり、その一端を知ることができる(沢田章『明治財政の基礎的研究』)。
 しかし、当時の経済状況はきびしく、翌年二月には貸出が停止され、そのため、福井藩民政局へ四郡大庄屋・惣会所惣代が、金銀貸付再開を懇願しており、惣会所の運営は当初から困難をきわめていた。金札は所期の目的に反して赤字財政補填のため乱発され、極度のインフレをひき起こして価値が下落したため、十分に通用しなかったのである。このため政府は二年六月には、金札の増発を停止するとともに、これを全国に流通させるため、府藩県の石高に合わせて強制的に割当て、正金を上納させることとし、その信用回復をはからなければならなかった。このため、福井藩では、同年十月には、難渋者にも貸出の枠を広げ、商売・諸職業が成り立つよう藩直接の貸出機関として藩内数か所に引立会所を設置した(資10 二―九〜一二、一五、二一)。
 ところで、福井藩では、従来郡方を上領・中領・下領の三領に区分し、それぞれ郡奉行を置いて支配していたが、慶応四年五月郡奉行の役名を変更して、上領支配・中領支配・下領支配とし、預所郡奉行も預所支配と改名、さらに従来それぞれの役宅で行われた民政事務を一か所に集めて行うため郡局(役所)を開設した。また年貢収納のための代官領七領を九領に割替し、さらに表2のように大庄屋組の再編成も行ったが、郡奉行鈴木準道は、これまで大庄屋の組下は三〇から四〇か村と村数が多く世話が行届かないことをその理由としていた(「公私録」松平文庫)。さらに彼の「郡宰心得方大概」(松平文庫)によれば「村々廿ケ村又は十七、八ケ村づつニ割合、其組々ニ而大庄屋ニ相願度者入札ニ致候様ニ申付、落札ニ相成候者ヘ役名被仰付」と、組合村むらの選挙による人材の登用をめざす新しい方向を示していた。

表2 福井藩大庄屋(明治1年)

表002 福井藩大庄屋(明治1年)
 さらに、明治二年の暮れには、版籍奉還後の諸務変革により、それまで農と市に分かれていた民政局の機能を統一し、また司計局より租税方・収納方を移管するなど、民政局の改革を進め、翌三年二月には民政組織の改革に乗り出した。すなわち、在方では、それまでの四郡支配と呼ばれる上中下領と預領に分割する支配や、年貢収納のための代官領を廃して、表3のように第一郷から第十一郷の一一郷に区画し、従来の大庄屋を廃して、各一人の郷長と平均十数か村を管轄する数人の里長を設け、村方三役を廃して各村に村長を置いた。また、町方には坊長・肆長を置き、福井城下は七組に区画してそれぞれ坊長一人と数人の肆長を置き、従来の町庄屋を廃して、町家二〇軒をめどに十人頭を置いた。この組織は、郷長を頂点にして布告類の徹底をはかるだけでなく、年貢収納、勧農勧業、救恤、諸願の取扱い、村内の取締りなどの機能をもっていた。

表3 福井藩の郷役員(明治3年2月)

表003 福井藩の郷役員(明治3年2月)
 またこのとき、二年の凶作をうけて救恤政策の強化がはかられ、引立会所が再編された。すなわち、各郷に引立元会所が置かれて、民政寮の役人が配されるとともに、各郷長の居村などに複数の枝会所も置かれ、郷長以下の新組織がそこに位置づけられた。また、組下村むらの金銭貸借や諸願書には、郷長、里長の奥印が必要とされ、惣会所の下部組織としても位置づけられた。ついで、三年八月には、作柄の回復により福井藩の救恤政策も打ち切られ、閏十月には引立会所も郷会所に改編された。
 三年十二月、旧幕府領を中心に本保県が成立したため、翌年二月ころ、福井藩の村方は六郷に再編された(表4)。福井城下の町方では一二区に三人の坊長と五五人の肆長が置かれ、また、武生には三人の坊長(うち一人差添)と一五人の肆長が、三国には坊長一人と七人の肆長が置かれた。なおこのとき、福井城下には士族卒族を支配する八人の族長が任命された。
表4 福井藩の郷長(明治4年2月)

表004 福井藩の郷長(明治4年2月)
 四年四月の戸籍法では、市街地で四、五町、村部で七、八村を基準に区を設け、戸籍事務を行うために戸長を置くことが定められた。このため、福井藩では六月、村方の郷を区に改め、郷長を戸長とし、里長を廃止した。また、同法では、士族卒農工商の別にかかわらず居住地の順に戸籍を編制することとしたため、福井城下は、町方の一二区と士族卒の町を合わせ、新たに八区に編制された。これにより三人の坊長が戸長と改称され、族長が廃されて新たに五人の士族戸長が任命されたが、肆長はすべて廃された。武生と三国の市街地もそれぞれ一区にまとめられ、福井藩では一六区一六戸長となった。
 三年十二月旧幕府領を中心に成立した本保県は、越前各郡に管轄地が分散しており、民政組織の編制は困難であった。翌年四月には各村の三役(庄屋、長百姓、小前総代)を総百姓の選挙により行うよう布達している。各郡一人の郡中総代の選挙も、はじめは郡中の総百姓の公選入札と定められたが、実際は村方役人による間接選挙により行われている。ついで六月には、各郡ごとに約一〇村を単位に区が置かれ各区に戸長が任命された。 写真010 本保県庁

写真10 本保県庁



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